過去の物語が今になる

チア・シード

コリント一10:1-13   


出エジプトの物語に登場した岩が、実はキリストであった。ある意味でこれはトンデモな説です。聖書のどこにもそうは書いてありませんし、そう理解する必然性もありません。これはパウロの解釈です。つまり、これはパウロのひとつの説教がある、と見たいのです。パウロが旧約聖書から説教をここで語っているのなら、この解釈は当然、アリです。
 
出エジプトは、詩編などからも分かるとおり、イスラエル民族のアイデンティティであり、原点だと言えます。コリント教会にこのユダヤ文化がどの程度浸透しているのかは分かりません。ユダヤ人であってもギリシア文化に染まっていたり、ユダヤ文化に関心をもつギリシア人がいたり、このあたりは研究者に教えて戴きたいと思います。
 
しかし、パウロはとにかくユダヤ文化を正面に掲げて、キリストを論じました。日本でいま聖書の文化を説明しながらも、真っ向からユダヤ文化や福音を語るのと似た構図があるかもしれません。日本で旧約聖書を背景にキリストを語ることが可能ならば、パウロのこの説教も大いにありうることで、私たちの説教にも引き寄せて捉えることができるでしょう。
 
カトリックでは、この岩と水の内容を、聖餐の意味にも受け取るのではないでしょうか。水を出す岩がイスラエルの民についてまわったというのは、旧約聖書には見当たりませんが、どうやら伝説のような形でそのように考えられていたと思われます。ですから、キリストは自分たちと共にいてくださる、これもまたよい説教です。
 
しかし、キリストが共にいたのに、民は約束の地に入ることができませんでした。原因は偶像崇拝てあった、これがパウロの今回の説教の目的です。十戒を蔑ろにし、偶像礼拝に明け暮れた金の子牛の前の民が、滅ぼされてしまったのです。一日に死んだ人数が旧約聖書と千人ずれていますが、引用した事件そのものには間違いがありません。
 
パウロはあの荒野で民とともにあった主を、キリストと読み替えています。これも解釈です。キリストを試みてはいけないと言いたいのです。この記事は、その時の自分たちのために書かれたとパウロは理解しています。世の終わりに生きる自分、それをパウロは意識し、捉え、人々に告げていた福音のスタンスでした。
 
これを現在の私たちが同じように受け止めてはいけないでしょうか。いえ、当然そうすべきです。「警告」と訳されている語は「タイプ」のことです。「予型」とも取れます。説教だからこそ、かつての出来事がパウロにとっての今に適用され、その記事がまた時を経て現在の私たちにも適用できる型となっていると読むのです。いわば二重の、現在化がなされているとするのです。
 
イスラエルの民の苦い経験は、当人たちには気の毒と言えば気の毒な結末を迎えました。しかし私たちには恵みが与えられました。あれを型として、つまり警告として、今もまたありうるものと受け止めましょう。あの民にすら、出口があったのです。あれは辛い人へ抜け道を暗示する慰めに留まりません。栄光へと続く出口へ走り抜くよう励まされているのです。


Takapan
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