ダビデの祈りについて探りを入れる

チア・シード

歴代誌上29:10-16   


果たしてダビデが神殿建築の材料を民に募り、実際に唖溜めたのかどうか。列王記初めの辺りとはずいぶん印象の異なる記事です。そもそもユダべったりの編集で、王権の正統化と善政の記録を遺すために書かれたような歴代誌であるとしても、ダビデがしたか、ソロモンがしたかを、入れ換えるようなことがあってもよいのでしょうか。
 
ダビデは人間的に欠点の多い人物でした。だが、信仰そのものが曲がったことは一度もありませんでした。比べて、ソロモンは人間としてもその才覚にしても、非の打ちどころのない華麗な王だったと思いますが、その王権脱脂湯も血なまぐさく、無数の女に囲まれて、信仰の点ですっかり曲がってしまいました。
 
イスラエルの人々はダビデを愛しました。それとも、イスラエル当局がダビデをシンボルとして、主なる神の下に一つとされた国家を企図して、そう狙ったとも考えられます。ダビデがこの神殿のためのお膳立てをし、ダビデがあらゆる面で計画と準備をして造営されたのがこのエルサレム神殿であることを強調しようとしているかのようです。
 
こうしてエルサレムの権威を高め、民族統一を力強く完成しようとしたのかもしれません。ソロモンのしたことは、ダビデの祈りと準備によってなされたものだ、としています。そして神殿はダビデによるものである、と定めたことになります。史実は謎ですが、とにかくエルサレムの建立はダビデ王である、という名前が必要だとされたと思われます。
 
さて、この祈りなるものは、すべての存在者、人が用いていく素材や資源などもすべて神からのものであること、人間はわずかな時のみ姿を現す寄留者に過ぎず、人々から募り集めた神殿の建設のための材料も、元はといえば神のものなのだ、と告白しています。人に何の誉れがありましょう。誇るものは人間の内には何もないのです。
 
よく、私は神に何々を捧げます、などと言うけれども、いったいすべてを神から受け、与えられたとするのならば、いったい何を捧げることができるというのでしょうか。せいぜいあなたから戴いたものをお返しするというのが精一杯のはず。このような姿勢は、神の前に頭をもたげる私たちの自負をへし折るために、すべての信仰者に必要でありましょう。


Takapan
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