礼拝のために

チア・シード

歴代誌上16:23-36   


ペリシテ人から神の箱を奪還し、喜び踊るダビデ。主への感謝の歌を作り捧げたのですが、それがまとめてこの章に集められているように見えます。前半が、詩編105:1-5から採られ、今回選んだ箇所は詩部屋96:1b-13aからと、終わりのほうは詩編106:1、また106:47-48からできていると理解されています。
 
こうして一つの物語の中に組み込まれたというようにいま取り上げましたが、果たして詩編とこの記録と、どちらが先に存在して、どちらを後から組み立てたのか、それは素人にはよく分かりません。ともかく、全地という言葉があるからには、これはもはやイスラエルの内部だけの話ではなく、イスラエルの祝福、祝祭だけに留まらないことが見て取れます。
 
そもそもダビデがこの詩を作ったのかどうかも分からないわけですが、もちろん内容的にはダビデに相応しく、ダビデに寄せて味わって差し支えないでしょう。主を称えることの絶え間ない言葉の流れが美しく、信徒は酔いしれてしまいます。それもよいのですが、見る人が見れば、ここに溢れんばかりに、礼拝に相応しい語が並んでいることを感じとるでしょう。
 
サイト「牧師の書斎」によると、ここに、歌う・告げる・語り告げる・ささげる・携える・行く・ひれ伏す・おののく・喜ぶ・こおどりする・言う・鳴りとどろく・勝ち誇る・喜び歌う・感謝する・誇る・ほめたたえる、とのオンパレードがあると指摘されています。なんと豊かな思いを、人は実はもっていることなのでしょう。
 
なんと多くの美しい言葉を、人は実は口にする準備ができていることなのでしょう。私たちの心の中にも、まだこの舌で出てくることのない、しかし美しい主への賛美の言葉が潜んでいるのではないでしょうか。日ごろ見にくい言葉や汚い思いが吐露されるこの唇が、神への賛美を自由に解き放つ準備ができているという慰めを得るような思いがします。
 
よく見ると、ダビデならば知ることのなかった捕囚を経ての叫びのようなものをここに見ることもできますが、それを問題としなくてもよいかとも思います。私たちがいまここで主を称えるのは、捕囚どころか、イエス・キリストの生涯を受け、その救いを与えられ、そして再び到来するキリストの時を待ちながらなのです。
 
その私たちの立場や思いをも、この詩のもつ豊かな言葉は具えており、歌いきっていると見ることもできるではありませんか。その上でなお、救い出してください、と祈っています。救われていないからではありません。単にその実現の時を待っているだけなのです。すでにここにはもう喜びがあり、賛美があるというわけなのです。


Takapan
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