善人が幸福になる世の中

2007年1月


どうしてこんないい人が……。
善良な人が不幸になり、悪いやつが金儲けをしてほくそ笑んでいる。
だからこの世に神などいないのだ。

パンダ

 そんな感情は、誰しも抱きうるものでしょう。

 いや、それでも神は……などと言おうものなら、弁神論などという呼び名を頂戴することになるかもしれません。神を弁護するなんて仕方のない奴だ、などと。

 善良な人がよい報いを受けてほしい、と人は皆思うのに、なかなかそうはなりません。だからこそ、昔話や寓話などで、悪が滅び善人が報われるお話がたくさん語られるのです。それは現実に起こらないからこそ、語られるのです。正直じいさんが、大判小判を掘り出すわけです。

 

 では、そのような感情の思惑とおりに、こうなったとしましょう。

 善いことをした人は金銀財宝をもらい幸せになり、悪いことをした人は厳しい罰を受ける、あるいは地獄に堕ちる。その通りになったとしましょう。そういう世界が現実になったとしましょう。それが、私たちの感情が願う、神さまのいる世界です。

 人は、どうするでしょう。競って、善いことをするに違いありません。善いことをすると自分に利益があるから、善いことをするはずです。「どうせいいや。善いことなんかしなくても。金なんかないほうがいいし、幸せなんてならないほうがいい。その結果地獄に行くことのほうが、まだましだ」などと思う人がいるとは考えられません。なんとしても、善いことをしたほうが、得なのです。

 こうして、人は皆で善いことをすることに熱中します。金をたくさん手に入れて幸せになるためです。

 

 どうですか。それを私たちは、「善い」と判断しますか。むしろ逆に、醜い自己利益の精神、自愛の塊だと見なさないでしょうか。

 それは「善い」ことではない、と言いたくなりませんか。でもそれは、私たちの願いとは矛盾することでしかありません。

 少なくとも私たちに、善悪を思う心がある間は、善ゆえに金や幸福が手に入るという世界は、理解できなくなっていくことになります。

 

 現実に悪があるのは、悪のゆえに得をすることがあるからです。悪者が栄えるのはけしからん、と義憤が起こるのも、悪い者が得をしているからです。

 善をすれば得をするという発想を始めると、その「善」と見なしていたものも、たんに「悪」としか呼べなくなっていくことになります。

 哲学者カントは、こうしたことを述べていたのだと理解することもできるでしょう。結果としての幸福を目的として行為することは、道徳的ではない、とカントは主張しました。道徳的であるというのは、結果の利益などを一切考慮することなく、端的にそれ自身で善であると思うがゆえに行為するときに限るのである、と。

 

 感情として、この世の不条理に憤り、神も仏もあるものか、みたいな思いを抱くことは否定しませんが、その不条理があるからこそ、神にはなれない人間を自覚することになるかもしれません。つまりは、人間の外に、神が存在する、というところへ、目を向けることになるのではないか、と思います。

 

 聖書は、虐げられた歴史をもつユダヤ民族が、見えぬ創造主に祈り叫ぶ言葉を列ねたものです。とくに詩編の中には、そうした人間の思いがぱんぱんに詰まっています。

 一見神がいない、という感情が正当であるかのように見えたとしても、深い背景を考えていくうちに、神がいないという前提にはどうしようもない狂いが含まれているということに、気づいていくかもしれません。


Takapan
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