テロップが奪う思考力

2003年12月

 いつからでしょうか。テレビ画面に、やたらと文字が出るようになりました。

 それが、聴覚障害者のためである、というのならまだよいのです。でもたぶん、それとは関係のない次元で、画面に文字、あるいはテロップが出てきているのです。

 いわゆる、バラエティー番組。ゲストが気ままに喋っているその内容が、要点として文字になって下のほうに並びます。ひと言ひと言、話した内容が文字になって強調されています。

 わざわざ親切にそのようなことをしている……というわけではありますまい。その方が視聴率がとれると思ってやっているはずです。

 ワイドショーなどでも、右下や右上のほうなどに、今のコーナーが何の内容をリポートしているのか、タイトルがずっとへばりついていることがあります。これはたぶん、チャンネルを替えてふとここを見た人が、今何についてやっているのか知り、そこで少しでも見入ってもらおうという考えにほかなりません。

 しかし今問題にしているのは、画面の人物が喋るひと言ひと言が、要点として文字になって流れていくことについてです。こんなことをして、何がよいのでしょう。

パンダ

 私のように、キーボードと画面に向かっているような人間は、何かの情報を得るためにテレビをつけてちらちらと見ることがあります。そのとき、テレビ画面をじっと見つめているわけではありません。そのような時間が惜しいから、手元で原稿を打ちながらテレビを見ているわけです。そのようなとき、その画面の文字、テロップが役立つのは事実です。聞くというのは案外神経を使う作業なので、BGMとしてしか流していにかった会話の内容が、文字の情報として入ってくるからです。聞くというのは、喋っている当の人が話し始めてから話し終わるまで聞いてなんぼのものですが、それが文字になってまとめられると、そうではなくなります。一瞬にして、文字を見れば、その人が発言した要点がすべて分かってしまうのです。時間が短縮できます。一瞬だけ文字を見ればだいたいの感じはつかみとれますから、じっと聞いていなければならない、ということがなくなります。

パンダ

 本来、聞くというのは、案外困難な作業です。相手の言うことを最初から最後まで聞いてしまってから、相手が言おうとしていた意味や意図を、自分の頭で再構成してあるいは想像して考えるというわけです。書いた文章を読んで要点を知るには、傍線でも引いて考えることができますが、発声された言葉は、ただ空中に消えゆくのみです。聞き逃さないようにしなければならないし、全部聞いても、相手の意図を再構築できなければ、その話の主旨を呑み込むことはできません。聞くというのは、かなりの労力を使う作業です。

 それが、このテロップにより、労力を必要としなくなりました。だって、そこに書いてあるのです。発言の要点が、手短に。十秒かかって語っていた内容が、1秒で把握できるとなると、やはりこのテロップは便利です。

 しかし、その代償として、私たちが失ったものがあります。それは、私たち自身が、発言の内容をまとめるという作業です。それがなくなったのは便利ではありますが、代わりに考えて要約するという必要性を感じなくなりました。ビデオに録っている、ということにでもなればなおさらです。後から調べられる、と思うと、今語られている言葉に耳を傾けることもなくなります。臨場感から、ますます遠ざかっていくことになります。

パンダ

 私たちは、じっくり聞くことに、我慢ができなくなってきています。新聞の見出しだけ辿って世間を理解しようとしている、あるいはしたつもりになっている人と同じで、じっくり考えるということからすっかり離れてしまっていることになります。

 要約するというのは、案外頭脳を使う仕事であり、思考エネルギーを消費します。それに大して、要約が与えられてしまうと、私たちは、わざわざ苦労して要約しようという意識が働かず、ただ与えられた要約のテロップを見て、あははと笑うだけということになります。

パンダ

 教会の牧師の説教を聞くことについても、だんだんと落ち着いて聞けなくなっている――ということが、ありませんか。じれったいとか何とか感想を言葉にするのは難しくても、ただなんとなく、じっくりと聞くことに自分が耐えられなくなっている、などと感じたことはありませんか。

 塾の生徒にも、それは言えます。こちらの話すことを、聞いていません。右の耳から左の耳に流れて消えていく、といったからかいの言葉が昔からありましたが、現代の子どもたちにとって、まくしたてる教師の言葉は、ただのBGMに過ぎません。言葉の意味などくみ取ってやいないし、問いかけも心の中に潜っていくことがありません。

 言葉が、表層をうごめき、恰も記号を拾うだけの機能で、十分なことができたと満足しなければならなくなったかのようです。

パンダ

 テロップを見るということは、他人がなした解釈に自分が従うということです。自分考えて、発言者はこういうことを言っているのだろうと考える段階をすべて飛ばして、テレビ局の人間が解釈したまとめを鵜呑みにしていくということに違いありません。

 私たちは、誰もが、考えないでよいように、考えなくなるように、という方向に突き動かされているのです。

パンダ

 信仰は、実際には見ることのできないものを、まるで「聞く」ようにすることではないかと考えられます。神は見えないけれども、その声は聞こえるのです。聖書の基本はそういう考え方で貫かれています。

 神を見た者は死ななければならないのですが、神の声を聞いたものは生きるのです。

 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5:8)

 心の清いということが、いかに抜群に幸いであるか、お分かりになるでしょうか。見たら死ぬと言われる神を、はっきりと「見る」と宣言しているのです。そこまで清いなどとはとても言えない私たちにできることは、せいぜい、神の言葉を聞くことくらいでしょう。信仰は聞くことに始まるのですから。

 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)

 さて、そこで本題に戻りますが、かのテロップの氾濫は、私たちから徐々に思考能力を奪っていくことになるようです。携帯メールで、孤独を恐れてつねに誰かに「今何してる?」のようなメールを送り続けるのも、逆に言えば、言葉が見えていないと落ち着かない心理をうまく表していると言えるかもしれません。

 私たちは、考えなくなっていきます。夢も見なくなっていきます。これらをなくした人間の行くべきところは、墓場以外にありません。ファンタージェンの滅亡の危機を描いた、エンデの『はてしない物語』のように、想像する心をなくしたら、人間は死ぬことのほか何もなくなるのです。

 考えない人間を操ろうとする狡賢い人間がいます。政治家たちです。頭数さえ揃えばよいというこどて、何も考えず従う兵隊を求めます。権力者は、いつの世も、同じことを考えます。

 私たちもそれに与するならば、救いの反対の滅びのほうにまっしぐらに進むことになるかもしれません。

パンダ

 じっくり話が聞けなくなった方、要注意です。


Takapan
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