手のひらほどの雲

2004年5月

 ほらきた。

 讀賣新聞によると、「政府は(2004年5月)27日、6月末のイラクへの主権移譲に関する新たな国連安全保障理事会決議に基づいて編成される多国籍軍に、自衛隊を参加させることについて検討に入った」のだそうです。

 武力行使を目的とするのではありません。人道支援のためです。しかし、武力が関わってきたときにどう出るか――目に見えています。「だったら攻撃されても無抵抗でいろというのか、腰抜けめ!」と言いながら。

パンダ

 何か変だな、という思いが、そのうち取り返しのつかない事態にのめりこんでしまい、「こうなってしまった」と流されていくことになる。

 日本には社会というものがなく、世間があるだけ。そこには個人が成立しておらず、個人の人権とか責任などというものも存在しない。――『世間の目』(佐藤直樹/光文社)はそう語ります。私はそう言われて、私がどうにも気分悪いなと思いながら見つめていた問題の謎が、すうっと取れていくような気がしました。

 世間においては、責任を負う主体というものが存在しないので、ある主体がこれこれを「した」ということはありえず、これこれに「なってしまった」となります。誰かが責任を負って事を左右するというのではなく、なんとなくそうせざるをえないように流されていくというのです。

 日本語の助動詞れる」はご存知の通り、受身・尊敬・自発・可能の4つの意味に分類されますが、その原義は「自発」であると言われています。そして「自発」から他の三つの意味が分化してきたとされるのです。「自発」すなわち、自然とそうなってしまった、というこの意味が元にあり、他の意味がそこから発生してくるというのは、なんとも象徴的ではありませんか。

 しばらく後に日本は、また思うのです。「仕方ない。こうなってしまったのだから」

パンダ

 例の産経抄は5月28日付けで、北朝鮮への拉致被害者家族への中傷メールについて取り上げています。小泉首相の訪朝で拉致被害者の救済がままならなかったことに対して、被害者の家族会がこぞって嘆きの声を挙げたことについてです。

 この反響は、家族会にとっても意外だったといいます。テレビなどで、首相を批判している部分ばかりが繰り返し放送されたために、反感を買ったのではないかと分析し、同じ会見で首相に労いも述べていることを知ってほしいなどと言っていますが、後の祭り。精神科医まの斎藤環氏は、これを「ねじれた判官びいき」と呼んで、パッシングの構造だと指摘しました。あの、イラクの人質事件のときのパッシングと同様に。

 ところが、上記の産経抄は、イラク人質のときとは明らかに違った対応をしています。つまり、最大限の賛辞と共に、この家族会の味方になり、バックアップしているのです。家族会の立場や声を、全面的に支援しているコラムとなっていることは、誰が読んでも明らかです。あのイラクのときには、その逆に、終始人質とその家族をいたぶり続けたコラムが、です。

 なんでだろう。しばらく考えた私の頭に浮かんだ説明は、次のようなものでした。

 産経抄の目的や意図は、北朝鮮とイラクが悪であるという感情を読者に与えることである、と。筆者の目的からすれば、北朝鮮に拉致された人々は、北朝鮮を悪にするためには、徹底的に善の側に置かなければならないのです。また、イラク人民の立場から助けようとイラクに潜り込んだ人質たちは、イラクを悪にするためには、徹底的に悪の側に置かなければならないのです。

 さらに言えば、どうして北朝鮮やイラクを悪としなければならないかというと、それと戦う日本が、神の国としてつねに正義で美しくあることを正当化するためでした。上のことの理由の一つにも、日本政府の命令に背いた人道支援者は、彼らにしてみれば国賊だったのです。

 また、日本の歴史の中の汚点を指摘しようとする学説は、彼らにしてみればすべて「自虐史観」として否定されなければなりません。そして、「愛国」の名の下に、日本のすべてが賛美されなければならないし、日本の反対の立場を取る国は悪の組織でなければならないわけです。

 単純ですが、この構造を背景として産経新聞の論評を見ると、初めて納得がいくことが出てくるわけです。

パンダ

 神の国と信じてやまない森元首相や、靖国参拝を当然でしょと呟きながら特攻隊に涙する小泉首相は、この新聞にとっては、全面支持すべき存在です。

 これを批判する民主党は、前面否定すべき存在です。

 菅直人前党首が国民年金未納ではないのかという指摘にはいち早く反応し、この新聞は糾弾しました。そのせいもあり、菅氏は党首辞任に追い込まれてしまいました。同じような状況が小泉首相に発覚したときには、ほとんど沈黙し、国政を預かる者と一党首とでは重要性が異なるから首相は辞めてはならない、辞めれば政局が混乱する、と言って首相の責任追及論を黙殺しました。

 菅氏の未納問題が、実は役所のミスであったという知らせが後にはっきりしたときには、この新聞の論評は全く触れることがありませんでした。菅氏は悪のままでなければならなかったからでしょう。

 新聞社により、何を取り上げるか、何を取り上げないかは、確かに任意です。しかし、読者はそれによって判断を誘導されます。大本営発表を鵜呑みにしていた時代のことを思えば、このことは否定できません。偏りがあるのはある程度やむをえません。とくにこの新聞のように、社の主張がはっきりしているところは、最初から記事が一方的なものであることを宣言しているようなものですから、いまさらどうしてと声を挙げても、最初からそう言っているではないか、と凄まれるのがオチでしょう。

 だから私たちは、自衛しなければなりません。新聞はときに、大本営発表なのです。

 テレビもまた、同様です。

 そのうち、引き戻れないところに連れて行かれて、「こうなってしまった」と世間の中の一部として運命づけられていくことになるのは、可能性の高いことなのです。

パンダ

「ご覧ください。手のひらほどの小さい雲が海のかなたから上って来ます」(列王記上18:44)

 旧約聖書、イスラエルの王たちがなんとか国を継続している中で、エリヤという預言者が現れます。異教の指導者たちを成敗して(これもちょっと過激ですが)、なんとかこれからイスラエルの神、主の下に国家が歩み始められるのではないかという兆しを得たとき、当時の干魃の中で、「激しい雨の音が聞こえる」と王に告げました。エリヤが七度祈ったのち、遠くを探していた従者が、上の言葉をエリヤに返すのです。

 エリヤは、王に、ものすごい雨になる(イスラエルでは雨はしばしばそのように降るらしい)と警告して、山を降ります。やがて、激しい雨がその地を襲うのです。

 教会では、これをしばしば、わずかな兆候を見逃すことがないように、と諭します。やがて神は大いなる恵みを与えてくださるであろう、と。これは、いわゆるリバイバル、信仰復興にかけて言われることもあります。今はそんな兆しさえないようなときにも、祈り続けることにより、遠くの手のひらほどの雲が現れる。そうして今に大きな信仰復興の雨が襲うのだ、と。

 これはよい例です。希望を捨てるな、ということ、祈り続けよ、という教えです。励まされます。

パンダ

 ですが、悪い方にとらえなければならないことがあるかもしれません。もしも「多国籍軍に自衛隊を参加させる」ことが一つの雲であるとすれば、これを放っておくことにより、たまらなく強い雨に打たれることになりはしないでしょうか。しかも、この雲を運ぶ風が、あの新聞のコラムのように手伝うならば、その「時」は意外と早くくるかもしれません。


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