生(なま)の体験

2002年10月


  小学校の総合学習で、初夏には田植え、そしてこの秋、稲刈りがありました。保護者も手伝ってください、ということで出かけましたが、行ってみるともちろん、必ずしも全員の親が来ているわけではありません。しかも昼間からうろうろしている男がいないのか、あるいはいてもこんな場には来ないのか、男手は私一人。頼りにされていたかもしれません。

 鎌で刈っていくのは、なかなか力が必要でした。日本の刃物は、引いて切るようにできているのですが、子どもたちはそれが分からずごしごしやっていました。引くときに力を入れるように指示すると、稲がスパッと切れるようになりました。一人が数束を抱えて、脱穀機の前に並びます。そこで籾が得られ、藁が吐き出されていきました。細かな藁は、ふわりと宙に舞います。

 日本では主食は米ですが、聖書の環境では、それはまさに小麦でしょう。この風景が、聖書に記してあります。


神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
(詩篇1:4,新共同訳聖書-日本聖書協会)

  この刈入れでは、籾殻が飛ぶのではありませんでしたが、藁のかすが風に乗って運ばれていくのを見ると、聖書のたとえが生々しく感じられてなりませんでした。


パンダ

 先頃の特別伝道集会で、講師の先生が、こんな話をしてくれました。

「ルカ12:24に、『烏のことを考えてみなさい』とイエスさまが仰いました。それは、頭の中でカラスを想像してごらんなさい、という意味でしょうか。そんなことはありません。この後すぐ『あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか』と言うときには、人間と鳥一般を比べてあるのでしょうが、カラスと言うときには、まさにカラスなのです。なぜカラスなのでしょう。カラスがそこにいたからです。頭で、カラスというものは……と考えるのではなくて、今空を飛ぶカラスを、ほら見なさい、と示したのです。イエスさまが見ろと指示されたのなら、私たちは見るべきです。頭の中だけであれこれ考えて、それで終わりなのではありません」

 だから、これからカラスを見たら、空を見上げましょう。「ああ、カラスなんだ」とそれを見て、それからそのカラスのことを考えましょう。先生は、そう語りました。

 聖書の言葉は、理論やイデオロギーではありません。とくにイエスさまが人々にお話しになったことがらは、読書をする人を対象にしたものでもなく、その場にいる生の人々に語りかけたのです。具体的に、誰にでも分かるたとえをもって、神の国のことを具体的に知らせようとされました。それでも、具体的なレベルだけで終わってはならないことは、戒めてあります。神の国のことについては、賢く悟り、聞き従うのでなければなりません。しかし、理屈に走る姿こそ、忌まわしい律法学者として攻撃されているのではないでしょうか。

 イエスさまは、具体的な生きる場で、神の知恵がはたらくことを、伝えています。

パンダ

 金持ちが神の国に入るのはなんと難しいか――そうイエスさまが嘆いたとき、あるいはそこでらくだと針の穴というユーモアを語ったほどですからもしかすると半ば見下したのかもしれませんが、そのとき、金持ちの青年は、口先では見事なことを言い放ったのですね。それでも、イエスさまのテストには合格できませんでした。金についてはルカ伝が随所でくどいくらい戒めていますが、それは、金がしばしば、神に従う実践のためには障害となることを言いたいのでしょう。

 聖書に従う生き方、生(なま)の体験のためには、金は何の力ももたないわけです。すると、体験を伴わない口先だけの律法やよい教えは、金というものと何らかの共通点かつながりをもつように思われます。

「そんなばかな。金があるから、現実に何でもできるのではないか」

 そんな意見もあるでしょう。

 でも、金は、誰かそれと交換しようという相手がいて初めて、価値をもつものです。孤独の世界では、あるいはそれと交換しようという気持ちのない相手しかいない場合は、何の価値ももたなくなります。人の幸せは、あるシーンでは実に金によって潤うものですが、あるシーンでは、まったく意味をなさなくなってしまいます。

 どんなに孤独でも、どんな相手がそこにいたにしても、幸福であることができるような方法は、立派な理論でも、金でもない……そこに気づくことが、福音の体験への入り口であるのかもしれません。




Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります