宗教教育の一つの役割

2006年4月

 教育に、宗教を取り入れてはどうか、という意見さえ出てきているという話を聞きます。

 教育勅語でもそうですが、特定のものを信奉させるという意味では、たしかにどれも「宗教」と呼んでよいものかもしれません。そう、「宗教」とは何を謂うのか、という定義が明確でなければ、この議論は成立しませんし、危険なものをもたらす可能性があります。

 教会学校は、明らかに、宗教による教育です。それは、信者にしてしまいそうだ、という恐れも与えるかもしれませんが、必ずしもそうとばかりはいえず、躾の一環として歓迎されることもあります。だからこそ、わざわざミッション系スクールに子どもを入れようとする親が多々いるわけです。

 

 それはそうと、宗教が教育するという意味では、夜になるとオバケが出る、ということから、悪いことをすると地獄に堕ちる、というところまで、その範疇に入る教育ではないかと思います。

 目に見えないもののことを重んじることは、宗教教育に入ってくるかもしれないというわけです。

 

 西日本新聞でしたが、投書欄に、そうしたことが書かれてありました。

 唯物思想により排除されてきたものを復権させるべきだ、という65歳の男性の意見でした。宗教思想を多くの人が受け入れ、信仰心をもつ意外にはこの社会を是正する道はないと考える旨、記されていました。

 一部引用します。

「釈迦は神仏の存在や輪廻転生を説いた。良いことをすれば天国へ、悪いことをすれば地獄へという善因善果、悪因悪果の法則を説いた」

 この人の信条が、如何に誤っているか、改めて説明する必要もないほどです。少なくとも、これらは釈迦とは全く関係がないでしょう。キリスト教的な「天国」さえも登場しています。

 この方が素朴に神仏を拝んでいることは想像できますが、そこには何の知識もなく、何をどう信じているのか、分かりません。多くの思想がごちゃ混ぜになっています。「信仰心」とは、そのようなことを呼ぶのだという思いこみで、世の中に憤っていらっしゃるようです。

 

 この方を嗤うつもりはありません。

 私たちもまた、聖書に基づく理解を示すことなしには、信仰していると言えないと見られることを悟るべきです。

 また、明らかに間違った思想や事柄が、聖書のものだと世の中に出回っていくことも、警戒していかなければならないと感じます。

 キリストが実は……というスキャンダラスな説が、時折巷に広がります。挑発的な、センセーショナルな解釈が、さも事実であるかのように人々に注目され、怖いことにそれがやがて信じられていくようになることがあるのです。

 残念ながら、釈迦の思想は、かの投稿のように、とんでもない誤解の中で広まっていっております。

 聖書の内容についても、誤りがゴシップ的に広まっているかもしれないことに、警戒をもたなければならないと感じます。悪貨は良貨を駆逐するといいますが、いくら聖書が有名になればいいと考えたからとて、明らかに間違った解釈が、聖書の思想だ、といって人口に膾炙するようなことは、よろしくありません。

 どんなに面白い解釈であろうと、中身を知ることなく興味本位で「自分にとって分かりやすいように仕向けた」だけの考え方で、自分を安心させるということが、そもそも的を外している、と聖書自身がすでに見破っているのですから、しょせんそれは掌の上で飛び回っているに過ぎないのです。孫悟空のように。

 

 基本的な宗教の知識を教育することならば、宗教教育には大いに賛成です。はたして選択するかどうかさえ怪しい高校の倫理で初めて宗教のあらましが紹介される日本ですが、たとえばアメリカでは、小学生レベルで、主な宗教についての紹介を教科書で受けるようです。それなりに正しい理解を知らされないから、妙な誤解が蔓延することになるのかもしれません。 


Takapan
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