毎日新聞(2005年6月10日)によると、「殺人などの重大な非行(事件)を起こして児童自立支援施設にいる14歳未満の子供に対し、厚生労働省は被害者への贖罪(しょくざい)教育を実施する方向で検討を始めた」そうです。
法制上の問題や、児童福祉の理念などから、簡単に実現できるかどうか、あるいはどのような制度にすればよいのか、見通しが立たない状態ではないかと思われるが、成り行きを見守りたいと思います。
すでに別の欄でも記しましたが、我が家で幼い我が子に対して母親が、大切な教育をしたことがあります。飼っていたカブトムシなどはもちろんですが、マンションのベランダに迷い込んで死んだトンボなどの場合でも、お墓を作りましょう、と言って、教会まで出かけて行き、その庭の隅に埋めてお祈りをしたのです。
この場合、「自分が殺した」という意味でやっているのではありません。それを教えようとやっているのではありません。けれども、そういう気持ちを自分の中から芽生えさせるような何かが存在するのは確かです。また、そんな気持ちを抱くことがなかったとしても、この弔いそのものが、命を蔑ろにしないという心を形成することができます。
だからこそ、日本人は今でも、○○供養というものを欠かしません。日頃は意識することなく生き物を殺して食べたり利用したりしなければならないのですが、年に一度でも、それらは実は命を奪っているのだから、そのことを心に刻んでおこうとするものです。
贖罪の意識の教育は、難しいことでしょう。はたして、それがプログラム的に教育されるものかどうか、にも一考の余地があるでしょう。
ただ、その言葉そのものが、すでにキリストの十字架を想定しているような気もします。
日本人の素朴な「供養」観念であるなら、比較的心に養いやすいかもしれませんが、さて、「贖罪」と呼べることになると、そもそも大人たち自身が、あまりもっていないものなのではないか、という疑いがもたれます。
もしも贖罪意識があって当然ならば、キリスト教がこんなに理解されないはずはないのではないか、と思われるからです。
たまたま(信じた者は、神からの働きかけと普通考えて)、自分は罪人であり罪を贖わなければならないが、その贖いが自分では完全にはできないことを痛感し、その罪を身代わりになって受けて贖ってくれたイエスこそ、人間を完全に救う主であると分かった、それがキリスト教信仰の基本的なコースではないかと思います。
贖罪意識が誰にでもあるのなら、このコースの半分までは来ているのであって、その中の一定の割合の人が、後半のコースにまで至りそうなものです。
しかし日本では、なかなかそうはなりません。問題は、「自分は悪いことなどしていない」という前提がある場合であり、そこにおいては、「自分は罪人で罪を贖わなければならない」などとは夢にも考えていないのではないでしょうか。
だとすれば、たまたま(非常に危険な言い方ですが、たとえばある環境が揃えば誰しもがそうした犯罪を実行してしまう、というふうなことではないという意味をこめて)重大な事件を起こした子どもに対して、「おまえは我々と違って、罪を犯したのだ。我々には贖罪などというものは必要ないが、おまえには必要だ。おまえは罪人だ。だからおまえは贖罪とは何かを教え込まなければならない。それが我々、贖罪など必要のない者たちの義務である。おまえは自分の罪とよく向き合わなければならない」と強要するような構図が可能性として成り立ちます。
4月の尼崎でのJR西日本の事故のときにも、会社を一方的に責め立てる人が多い中、これは自分も含めた社会の緩みだ、と自分の責任も入っていることを語っていた人がいました。乗客である自分たちがこうした要求をしていったのだ、という自覚をもつ人は、必ずしも少なくありませんでした。
私は、そこに「贖罪」の意識を見ます。私もまた、事故の経緯が伝わってきたとき、すぐにそのことを考えたのです。
こうした気づき方をする人が増えてくるならば、まだ安心です。それが「贖罪」であるかどうかはまた別として、「自分たち大人にも大きな罪がたくさんあると気づいているが、同じようにあなたも気づいて、今後どのようにしていけば少しでもいい方向に進むことができるのか、考えてみようではないか」というふうに、その子どもたちに語りかけ、気づかせていくのであれば、私は賛成です。
怖いのは、そうでない場合です。
大人たちが、自分には贖罪の必要などない、という顔で、子どもたちに贖罪を押しつけている姿は、子どもたちは当然感じ取ります。それは、この「教育」の理念からは最も遠いものとなりかねません。
懸念するのは、歴史的な事柄について、贖罪意識を「自虐」だと否定する声が高いことです。政治的な背景もありますから、事は簡単に結論づけることはできないと思われますが、表向きにでも、贖罪は自虐であり必要ない、という声が響き渡る中では、子どもたちに贖罪を強いることが、健全であるようには、見えてこない気がします。
もしかすると、外国から見て、日本という国に「贖罪教育」が必要だ、という見方がなされていないとも限りません。
理想化するつもりはありませんが、やはりあのドイツの「荒れ野の40年」(ヴァイツゼッカー大統領演説)には、倣うところがあるように思えるのです。
それはともかく、子どもたちの間の、ある意味で無邪気な(これも誤解を招きそうな表現ですが、短絡的な意味や、計算高い計画・金目的でなはという意味などをこめて)犯罪は、話しに聞くだけでも辛い思いです。
子どもたちにそんなことをさせないためにも、大人が模範を示していく決意が望ましいものです。私がそんな立派なことをしているというつもりなどありませんが、横断歩道を渡るとか路上駐車しないとかいう、そんな小さなことからも、大人がルーズにならない気づき方をしていきたいものだと願います。