「申命記」という巻が、旧約聖書にあります。
なんと読むのでしょう。「しんめいき」です。そのままですね。
では、どんな意味でしょう。どうも中国経由の言葉らしくて、ピンとこないのですが、再び律法を述べる、という意味のようです。モーセ(エジプトからイスラエルの民を連れだした人)が十戒を授かるシーンは、映画でもおなじみですが、そのモーセが死ぬ前に遺言のように、もう一度神の定めたおきてを伝えておく、という設定で記されているものです。
なにかとまどろっこしく書かれていて、旧約聖書なんて何が言いたいか分からない、と不満をこぼす人がいますが、気持ちは分かります。そういう人に、コンパクトに分かる旧約聖書、としてお勧めするのが、この「申命記」です。旧約聖書で、神は人間(イスラエルの民)に対してどんなことを要求しているのか、を手っ取り早く知るには、これが一番……とたかぱんは考えます。
この「申命記」のおいしいところを、紹介しましょう。(訳は日本聖書協会『新共同訳聖書』より)
舞台設定は、モアブの野。あと一歩でカナンの地(現在のイスラエル)です。
イスラエルの民は、はるばるエジプトから脱出して、40年をかけて、ついに目的の場所を目前にしています。神から、この土地を与えるという約束をもらって、くじけることなくここまで民を導いてきたモーセも、ついに人生の幕を下ろそうとしています。
これだけは、伝えておかなければ。
モーセの絶唱が始まります。
イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。 そうすればあなたたちは命を得、 あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、 それを得ることができるであろう。 あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、 減らすこともしてはならない。 わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。(申命記4:1-2)
聖書の思想を文化の中に取り入れたヨーロッパの文明は、法やきまりは守らなければならないという、暗黙の前提を有しています。人の顔色を見て判断をするのでなく、原理に従うべきである、という理解があります。「原則では〜だが実際は…」という、日本での常套句は、考えられないことです。原則には、従わなければならないからです。駐車禁止の標識も、禁煙の警句も、完全に無視して平然としていられるというのは、おかしくはないでしょうか。
掟・法・戒め・命じる言葉……すべて同じこと。神の言葉には、そんな重みがあります。
いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ 大いなる国民がどこにあるだろうか。(申命記4:7)
イスラエルの宗教は、選民思想があると紹介されます。自分たちこそ偉いという意識、唯一の神という意識が、戦いを招いているのは事実です。でも、それはどこの国にもあることです。日本でも最近、それを強調するための教科書が編集されました。
ここではそれよりも、呼べばそばにいて答えるという信頼の様子に注目してみませんか。神を信頼し、また神に信頼される人間になろうとする気持ち、誇りというものはそこに生まれます。
ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、 目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、 子や孫たちにも語り伝えなさい。(申命記4:9)
あたりまえのようなことをバシッと言いますね。言わなくても分かるだろ、という以心伝心のような考えはないようです。だから子どもにも、しっかり伝えよと命じます。そうしていれば「うちの子に限って……」という驚きは、たぶん現れることがないように思うのですが……。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。 こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、 すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、 あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。 人はパンだけで生きるのではなく、 人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを あなたに知らせるためであった。(申命記8:2-3)
最後の文は、新約聖書に引用されています。イエスが、いわゆる悪魔の誘惑を受ける場面で、イエスが断食をして空腹を覚えたとき、悪魔が現れて「いったいおまえが神の子なら、この石をパンにでも変えて食えばいいじゃないか」と言います。それに対して、この文を取り出すのです。
それにしても、苦しむのも神の賜物という認識は、強いです。七転び八起きどころではありません。国が滅び千九百年の間散り散りになっていても、再び国を築くことを願い求めてついに実現させたイスラエル人の忍耐には、すさまじいものがあります。平穏無事、家内安全を求めるだけでは培うことのできない、とてつもない根性が植え付けられそうです。
衣食住が幸福なのではない、人のいのちはこの言葉によるのだ。だから、うちのめされても、死に絶えることがないのだ……。
あなたは、人が自分の子を訓練するように、 あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。(申命記8:5)
はたして、今の親は自分の子を訓練しているのかどうか……問われるような思いです。
あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」 などと考えてはならない。(申命記8:17)
なんにしても「おかげさまで」と前置きする文化に、日本人はいるのですが、ほんとうに人のおかげだと思っている者が、その中にどれほどいるでしょうか。ここでは、発言するだけでなく、考えてもならないとあるのですから、心の中のことまで鋭く問われている気がします。聖書の神は、うわべの言動のことにとどまらず、人間の心の内まで貫くまなざしで見つめているにちがいありません。
主が正しいと見なされることを行うなら、 あなたも子孫も幸いを得るであろう。(申命記12:25)
聖書には、しばしば私たちの目から見れば非合理的に思えるようなことが記されています。この直前には、血を肉とともに食べてはならない、と述べられています。これを根拠に、ユダヤ人は今日も血のしたたるレアステーキなどは食べないのですが、たぶんどうしてそこまで、という思いで現代人は見ることでしょう。
けれども、問題は私たちがどう思うかではなくて、神がどう思われるかにある、とこの文は宣言しています。基準は人間でなく、神の側にある、というのです。
このことは、すべてそのときの人間が善かれと思ってすることが、必ずしも最善のことであるとは限らないことを、気づかせてくれます。なるほど、懸命に考えた。だからベターかもしれない。でも、それがすべてであるわけではない……だのに、私たちはなんと少数意見を排除し、けなし去ろうと意地になるのでしょう。人を非難する前に、自分のその高ぶる思いのほうを点検したほうがよい場合が多くはないでしょうか。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。 主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、 御自分の宝の民とされた。(申命記14:2)
幼子のうちに、愛された感覚が大切だとよく言われます。物言わぬ赤ん坊のうちから、抱きしめられたり、話しかけられたりして、十分な愛情を注がれることが、きわめて重要だと認識されるようになりました。
愛された経験のある人こそ、人を愛することができるのでしょう。信頼された経験のある人こそ、人を信じることができるのでしょう。今なお多くのイスラエル人がこの同じ神を信じているのは、やはりこの神に愛されたという自覚があるからにちがいありません。
あなたの神、主が与えられる土地で、 どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、 その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、 手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、 必要とするものを十分に貸し与えなさい。(申命記15:7-8)
旧約聖書には、律法、つまり今で言う法律が、事細かに記述された箇所があります。申命記の中にもそういう部分があって、このあたりには、税金とそれを用いる方法などが書かれています。福祉的な配慮でしょうか。はたしてこうした規定が現実にどこまで実現できていたかは分かりませんが、こういう規定そのものが存在したことは驚きです。現代では、こうした規定すらないのですから。
裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、 同胞に対して偽証したということになれば、 彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、 あなたの中から悪を取り除かねばならない。 ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、 このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。 あなたは憐れみをかけてはならない。 命には命、目には目、歯には歯、 手には手、足には足を報いなければならない。(申命記19:18-21)
これを読むと、いわゆる「目には目」が報復を促す乱暴なきまりだ、という意見は、脇に置かなくてはならないと感じます。たくらんだ悪事、嘘をついて他人を陥れることに対しては、厳罰を要求してしかるべきなのです。いったい私たちのまわりで、加害者の権利は、被害者の権利よりはるかに大切にされていないでしょうか。
また、目には目、というのは、目をやられてもそれ以上にやり返すことはいけない、という意味であるとも言われます。報復という名で、正義の旗のもとに、過剰にやり返すことが望ましくないと、学ぶ必要があるかもしれません。
同胞の牛または羊が迷っているのを見て、 見ない振りをしてはならない。 必ず同胞のもとに連れ返さねばならない。(申命記22:1)
悪事をなしたことへの責任のみならず、善いことをしなかったことへの責任まで問われる……かなり厳しいように思います。東洋の儒者の教えにも似たようなものがありますが、それはあくまでも教えです。聖書は法律です。人徳としてたたえられる行いではなく、万人が果たさなければならない義務として、こうして残されていることを、人類はどうとらえればよいのでしょうか。
唇に出したことはそれを守り、 口で約束した請願は、 あなたの神、主に請願したとおりに実行しなさい。(申命記23:24)
日本にも、言霊という考えがあります。しかしそれは、言葉に魂がこもっていると考えるものであって、そこには、口にしたことにどこまでも責任を持ち、それを貫く義務を負う、という意味ではないように思います。もしも、言葉なんて口先だけのもの、という考えが通用するとしたら、誓いとか誓約とかいうものは、なんと信用のおけないものになってしまうことでしょうか。
わたしが今日あなたに命じるこの戒めは 難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。 ……御言葉はあなたのごく近くにあり、 あなたの口と心にあるのだから、 それを行うことができる。(申命記30:11,14)
それはないでしょう、とつぶやいてしまいます。聖書にある命令は、とてもじゃないが全部できるものではありません。だからこそ、新約聖書が成立したのです。全部できないという意識から、実はほんとうの救いが始まる、とイエスが宣言したことにより……。
たとえばこんなふうにとらえるのはどうでしょう。教会に行き、よいお話を聞いて満足して帰る、それでよいのではない、と。この教えは、いついかなる時も自分に対して投げかけられており、自分がとにかく生きている以上、すべての時、すべての場所において、関係しているものである、と。それはまた、厳しい命令がただ課せられているという重圧を意味するのではなくて、いつも神がそばにいて、すべてにわたって自分と共にいてくださる、という安心につながるものだ……。
強く、また雄々しくあれ。 恐れてはならない。 彼ら[=敵]のゆえにうろたえてはならない。 あのたの神、主は、あなたと共に歩まれる。 あなたを見放すことも、見捨てられることもない。 ……主御自身があなたに先立って行き、 主御自身があなたと共におられる。 主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。 恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:6,8)