限られた命を意識する――『僕の生きる道』

2003年7月

 2003年7月7日の夜のテレビ番組、SMAP×SMAPを楽しみにしていました。3月まで放映されていた『僕の生きる道』の特集があると聞いたからです。

 このドラマについては、かつて「つぶやき」でも扱いました。ドラマとしては私にとり内容深いもので、余命一年と宣告された中村という男性高校教師が、そこから初めて人生とは何かを考え始め、自分の人生まさに懸命に生き抜いたという物語でした。とくに偉大な事業を成し遂げたというわけでなく、ただ教壇に立ち、生徒たちを集めて合唱コンクールのために練習した、というだけの日々でしたが、その間に結婚もして、支え合う魂を共にすることができました。多くの人々に、自分の問題として考えさせるドラマでした。

 今回の特集は、次の問いによるものでした。

「もし、あなたの命が あと24時間しかなかったら どうしたいですか?」

 主演女優が、出演者一人一人に、この問いを投げかけます。老若男女、それぞれの回答を引き出すのです。「短いですね……」と絶句した後、思う限りの過ごし方を答えます。やはり人生経験を重ねた人のほうが、傾聴に値する生き方を示してくれたような気がしました。

パンダ

 主演女優自身も、このドラマを経て、目に映る景色が変わったと告白していました。そして、いつ死ぬか分からないものだという意識で生活している、と言っていました。

 そうなのです。余命一年と宣告された中村先生も、もしかするとその一年が過ぎる前に事故で死ぬ可能性があったわけだし、周りの誰かが、彼よりも先に突然死ぬということもありえたわけで、宣告を受けた時点で、中村先生が先に死ぬことになるという条件は、絶対ではなかったことになります。蓋然性は高いにしても。

 7月7日の七夕に寄せて放映されたかどうかは知りませんが、限られた逢瀬の物語に限られた命を意識させる番組は、そうした事柄に注意を向けさせる意味ではよい番組でした。誰にも分かりやすい内容だったと思います。

パンダ

 でも、さらにそこから進んでいきたい。

 その問いそのものに問題はないか、と。

 つまり、「あと24時間」という執行猶予が与えられる可能性が、現実にあるのだろうか、ということです。それで残された時間を味わうゆとりのようなものが、現実的なものか、ということです。

 それがありうるのは、たとえば死刑囚のような立場であるか、あるいは、24時間以内に金を用意しなければ人質を殺す、というような場合のほかには、あまり考えられないのです。それとも、食べ物も水もなくなった遭難の状況……。

 いずれにしても、当事者にはもはや自由がなくなっています。そこから山に登るだとか、夜景を楽しむだとか、買い物に行くだとかいうことはできません。

 突然、すべてが終わらされるということもあります。事故や犯罪により、思いがけないときに。――寝ているときに首を絞められて殺されるという実例が、私の身近なところで起こりもしました。

パンダ

 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。(ヤコブの手紙4:14,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 宗教改革のルターは、ヤコブの手紙の記述に、聖書の救いの根幹に対して誤解を起こさせる表現があるという理由で、ヤコブの手紙を軽視したと聞いています。ですがもちろん、この手紙はすばらしい内容に満ちているのであり、生活の中で理解できる、きわめて現実的な問題が効果的に盛り込まれていると考えた方がよいでしょう。

 この箇所の前後は、次の通りです。

 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。(ヤコブの手紙4:13-17)
パンダ

 若い頃から、すでに幾多の哲人たちの人生の言葉を垣間見てきました。それに驚いたり、かみしめたり、信奉したり、さまざまな反応をしてきました。ですが、年齢を重ねてそのことを振り返ると、若いときにはまだまだ観念的だったように思われることがあります。もっと現実的なものとして、明日の命を意識するとき、それは問題を後回しにしないことが第一なのだと感じます。

 家族に怒りを向け、自ら諍いを作るなら、いま死ねないではありませんか。教えている子どもたちをただ叱って、その夜その子が死んだら、取り返しがつかないではありませんか。

 もし「神」という前提を抜きにして考えたとしても、この聖書の言葉に納得できるところがあるなら、「神」を思うときには、なおさらということになるものでしょう。


Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります