イエスの視界と旧約聖書

2002年11月

 聖書の知識が十分でなくても、イエスさまが好きで好きでたまらなかった。それで、イエスさまの弟子になりたい人は? と訊かれたとき、ぼくは手を挙げました――。

 特伝の講師として語られた牧師が、中学一年のときの自分を振り返って、こう話しました。

パンダ

 聖書はすべて誤りのない本だと信じ……と、信仰告白に記している教団があります。その告白は大切なものだと思います。ですが、それをどう掲げるかという点では、扱い方というものがあろうかと思います。聖書の矛盾点と言われていることも、実はこう解釈すれば矛盾ではなく……と言い始めると、いわゆる弁神論となります。弁神論が悪いわけではありませんが、いつしか人間の理論をこねくりまわす場となってしまいます。あるいは、理屈とは関係なしに聖書は聖書であるゆえに正しいのだ、間違っているはずがないのだ、と言い張りすぎると、いわゆる原理主義というレッテルを貼られます。原理主義的な考え方がすべて悪いわけではないにしても、原理主義という呼称は、悪い響きで語られます。

 でも、聖書は嘘っぽいよね〜と斜に構えて語るのも、まずい。聖書は正しいと信じながらも、聖書はこんなふうに正しいんだぞ、と自分で論破するように傾くのは問題がある。なんとも、扱いにくい対象であることでしょう。

 そこで、先の特伝の先生が、イエスさまの弟子になりたい一心で……と語ったのは、素朴ですが、実はいちばん大切な部分ではないかと思うのです。イエスさまが好きだから、イエスさまに従って行きたい、という思いだけで、十分に、イエスの弟子としてほめられたものであるはずです。自分の知識や経験から語るのでなく、ただひたすらに、イエスさまがそうだから、という視点。

パンダ

 キリスト教はキリストそのものだ、そういうとらえ方もあります。そして、福音書のイエスの姿をとにかく見つめていこう、そこから始まってそこに帰っていかなければならない、他のことはすべて付け加えのようなものだ、そういう意見もあります。

 福音書のイエスの姿を追う、それが私たちに一番必要なことでしょうか。

 たとえば私たちが、ある歌手か俳優のファンになるとします。その人が歌う、あるいは演ずる番組や舞台を見て、その人を追いかけていて、それで満足するでしょうか。

 私なら、こう考えます。その人はどういうところに立って、ものを見ているのだろうか。どういう見方をしたら、あのような歌が作れるのか、あのような演技ができるのだろうか。

 なるほどそういう経験があったからチャリティを企画したのだ、とか、子どもを亡くしたから子どものための番組をしているのか、とか、そんな具合です。その人の立って眺めている視野、あるいは視界というものを、共有したくなる気分になりたいと願います。その人を見つめるだけでなく、その人と一緒に同じものを見つめてみたい、と思うようになります。

 イエスの姿を、息を詰めるように見つめていても、イエスの心は見えてこないかもしれません。でも、イエスと同じところに立って(そんなことができるのかどうかなどの議論は別にして)、同じ景色を眺めてみたい、という気持ちに、私はなるのです。

 つまり、よく言われるように、キリストはキリスト教信者ではなかった、という程度の問題でなく、もっと徹底してみたいと思います。

パンダ

 キリストは新約聖書など読みませんでした。まだ作られていないのですから当たり前です。キリストは、キリストがどのようなことを言ったとかしたとかいう記録を読むことはありませんでした。福音書を、一字一句解釈の限りを尽くすように読むというのは、イエスのしたことではありませんでした。

 イエスは、今キリスト教世界でそう呼んでいる、旧約聖書は読んでいました。そして目の前にあるのは、字も読めず、知恵のある者にうまく利用され、地上での弱さをまざまざと見せつけられるような毎日の中で埋もれそうに生きている庶民たちでした。彼らは、宗教的にはどれほどの知識があったかは疑問ですが、今でも日本で、仏さんがどうの、ということを口にするように、イスラエルの神がどうの、ということは分かっていたと思います。いえ、お経について日本人がほとんど知らないのとは対照的に、二千年前のユダヤでは、いくらかでも余裕があれぱ、聖書の教育はかなりしっかり行われていと推測されます。イエスが聖書の言葉を引用して律法学者たちに反論するのを、庶民は喜んで聞いていたといいますから、聖書の言葉については、かなり共通の理解があったと思われます。

パンダ

 もし私たちが、キリストの生き方に倣いたいと思うなら、そしてイエスと一緒にものを見てみたいと思うなら、旧約聖書の地平で見つめていくことが必要です。新約聖書だけを読んでイエスを知ったような気になるのは、日本語吹き替え版の洋画を見て、その俳優のすべてを知ったような気持ちになること以上に、的はずれなことだと思います。

 でも、極論に走らないでください。何もかもが当時のままでなければ何も分かるはずがない、などと言いたいわけではありません。そのイスラエルの風土を全部再現して、歴史の中に立たなければ不可能だ――そうは思いません。

 ただ、イエスは十分旧約聖書の学びをして、まず癒しのわざをもって人々に救いを伝え、やがて癒しや奇蹟を中心には据えず、もっぱら論争に巻き込まれる形になって、権力者の大衆操作によって、死刑台へと歩んでいった……そのことは、記憶しておく必要があるでしょう。

 あとは、個人が、祈りなり黙想なりの中で、イエスの見た風景、イエスの立っているその場所を、可能な限り想像して、イエスのまなざしを、受けるとともに、注ぐ視野というものにも気持ちを送り込んでいけばよいのでは、と思います。

 イエスと共に立った風景を少しでも見つめたいと思うならば、私たちは、もっと旧約聖書を読むべきです。イエスさまが好きだと思うなら、新約聖書解釈の知識や神学ではなしに、イエスさまが見ていたその場所に立とう、という気持ちから、何か始めてみてはいかがでしょう。弱い立場の人に味方をすることでも、因習の中で希望を失っている人に立ち上がる力を注ぐことでも、何でも、よろしいのです。



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