救われたクマゼミ

2002年8月


 そのとき私は、20%ほどの乗客の一人として、お見合い式の椅子の隅で、『至高聖所』を読んでいました。駅でドアが開いても、乗降客はほとんどありません。

 と、音がしました。バチッ、バチ、バチッ……。見上げると、セミが、車内の蛍光灯や天井に、当たっています。ドアから飛びこんだ、珍客でした。

 そのあたりを旋回しては、壁に当たることを繰り返すセミ。開いたドアから出ればよいのに、悲しいかな、それができない。やがて電車は、無常にもドアを閉めて走り始めました。

 クマゼミのようです。ブーンと飛んでは、バチバチと羽をどこかに当て、気の毒です。木とは違って、つるつるの壁には、とまることができないのです。

 どうすることもできません。追ってつかまえられるものではないでしょう。騒いでもどうにもならないし、セミが人間を襲うわけでもありません。私は、読書をやめることはしませんでした。

 クマゼミ君、向こうの若い女の子のところへ行きました。キャーと叫び声。ボクサーよろしく、からだを前後左右に揺らしながら、セミを避ける人々。べつに、ぶつかりはしないだろうに、なんとなくそうして避けているつもりです。

 そうしたことが、数分間続きました。哀れなクマゼミ君は、どこにもつかまるところがなく、ばてるほどにブンブン飛んでいます。私は、じっとしていました。もしもここに来たら、助けて外に出してやるのに、などと思いながら。

 と、私の反対側の窓の上で羽を鳴らしたクマゼミ君、一直線に私のほうへ来るではありませんか。そして、私の胸のネクタイに、ピタッと着地しました。

 身動きひとつしません。クマゼミはいつもそうですが、悠然と構え、じっととまっています。そもそも、その体力さえなかったのかもしれませんが……。彼と、目が合いました。離れた目が、チャーミングです。まるで、私に向かって、救いを求めているかのように、ただ私のことを見つめています。

 私は、胴体の脇を指で挟み、そっとクマゼミ君を持ち上げました。クマゼミ君は抵抗しませんでした。ちょうど、駅に着いたところでした。ドアが開きました。私の降りる駅ではありません。私はそのまま立ち上がると、ドアの外に彼を放りました。

 彼は、またホームの蛍光灯めがけて飛んでいきました。

 何事もなかったように、私は元の席に着き、『至高聖所』の続きを読み始めました。

パンダ
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
(ローマの信徒への手紙8:22,新共同訳聖書-日本聖書協会)


Takapan
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