長年電車通勤をしていると、それなりに変化を覚えることがあります。
たとえば駅のトイレ。少し前までは、「汚さないでください」「きれいに使ってください」といった口調の、貼り紙などの掲示が普通でありました。
それが最近、「ありがとうごさいます」という感じで書かれているものが増えてきました。それも、「きれいに使用してくださり、ありがとうございます」などという調子。
言うなれば、良心の呵責を覚えるようにさせるという作戦なのでしょうか。なるほど、こうすると、心ある人は、きれいに使わなければならない、と思うようになることは間違いありません。
先取りしているのです。結果としてきれいにしてもらったことに対する御礼を先に述べられると、それを裏切ることに躊躇してしまうという、通常の人間の心理を突いた作戦なのでしょう。
だが、オレはきれいになんか使っていないぞ、という人がいたとき、「きれいに使用してくださり、ありがとうございます」とい言葉は、悲しいくらい無視されてしまうことになるかもしれません。そんな危険を伴いながらも、全体的に、よい方向に水を流そうという、一つの大きな方向転換であると言えるのでしょう。
世の中、良心の呵責を覚える人ばかりではありません。大勢が正直にすればするほど、ただ一人が嘘をついて人を騙すことの利益は大きいものになります。
近年、この「嘘」が平気でまかり通るような風潮が強くなってきているように感じます。日本には、「嘘も方便」という言葉があり、これが実に嘘について、風通しをよくしているのです。
いえ、本当のところ、自分以外に自分の行いを審くことのできる存在を認めない精神が、自分で自分の嘘を許してばかりという事態に、これまた酔いしれているだけなのかもしれません。
まず自分から挨拶をするといい。まず自分から下手に出て、平和への道を作るといい。イエスの教えた「幸い」の数々は、結果を先取りする気持ちの中から、生まれてくるものなのかもしれません。いえ、そもそも信仰とは、この結果の先取りということであるに違いない、とさえ思えます。
神の約束を先取りして、それを希望として、喜びとして生きる。
不思議なことでしょうか。私たちは、来月にはこの仕事で給料がもらえる、と「信じて」、「希望をもって」、働いているのではないでしょうか。
日常的に、私たちは「信じて」働いています。なのに、「信じて」生きられないというのは、却って妙な話であるとは言えないでしょうか。