有名な、ルカによる福音書10章の、善きサマリヤ人のたとえ。私は、聖書本文のどこにも書かれていない「善き」という表現にいつも引っかかっています。これは、善悪の問題ではないはずだ、と思いながら。
ところで、今日はそれとは違う、隣人という言葉について、考えてみます。
イエスは、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10:36)とお尋ねになりました。
これに対して律法の専門家は答えました。自分は立派に隣人を愛していますと認められたかったユダヤの学ある人は、こう言いました。「その人を助けた人です。」(ルカ10:37)
なんとずるい言葉でしょう。忌み嫌っている「サマリヤ人です」とは呼ばなかったのです。嫌な奴の名前を出して、そいつが偉い、とは、口が裂けても言えなかったのです。でも、これは私たちも十分思い当たりますでしょう?
そこで、イエスは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)
よろしい。サマリヤ人だと明言できなかった、心の狭い者よ。心が砕かれることのない者よ。隣人になった者を説明できないのなら、それならば、その精神をあなたが実践するために今ここから出向くがいい。実際にそれを行ってみるがいい。
そんなふうに、脚色で勝手な解釈をしてみましたが、これは私の感じ方、捉え方に過ぎません。
さて、ここに「隣人」という言葉について、日本語としては、実にこなれない表現だと、ずっと考えていました。それがこのたび、「お友だち」と言い切って、こどもに向けて話をなさった方がいて、ああそれでいいんだ、と改めて目が開かれたような思いがしました。
隣人などという、日頃使わない言葉で、分かったようなふりをしていた私は、どうかしていたのだ、という気持ちにさせられました。
隣人愛という言葉もそうです。美しい言葉ですが、「その人をお友だちとすることができますか」というふうに考えれば、ひとつひとつの行為や言葉が、試されるような気がしてきました。
隣人とはお友だちのことだという理解。子ども向けに話す言葉ですが、実に的確に事実を伝えています。祭司などは、傷ついた同胞の、お友だちにはなれませんでした。その仲間たるユダヤ人との間に、心の垣根を作ったのです。
しかし、日頃その傷ついた人の属するユダヤ人に軽蔑を受けている、サマリヤ人は、なんとか助けなければ、という思いから、心に垣根を作ることはしませんでした。お友だちになったのでした。
ところが、ここで、子ども向けの「お友だち」という言葉に、パラドックスが生じます。
おとな同士を考えてみましょう。私たちは、どのおとなともお友だちというわけではありません。自然と、普段の生活の中で、垣根を作って生活しています。わざわざ「お友だちになる」という言い方をしなければなりません。
しかし、こどもたち、まず小学生などでは、いやでも一つのクラスの中に置かれます。そのクラスは、友だちであるべきだ、という前提で過ごす毎日が設定されます。しかし現実には、そこには敵がいることがあります。この閉鎖性ゆえに、いじめも起こることがあります。「お友だちになる」というよりも、まず「友だちのはずでしょ」からスタートさせられるのです。
さらに、幼児はどうでしょう。今から会う子、初めて見たその子も、すべて誰もが「お友だち」と呼べるのです。どの幼児どうしも、「お友だち」と呼び合い、接近します。わざわざ「友だちとなる」などと言うことすらありません。
いやはや、幼子のようにならなければ、というイエスの言葉も、こんな例からも圧倒的な迫力をもって迫ってきます。
幼子はすごい。