あるメッセージで開かれた聖書は、マタイによる福音書の13章でした。商人が良い真珠を探しているということで、天の国をイエスがたとえているという部分です。
このときに、真珠がいかに大切に扱われているか、が語られました。
真珠は、主にアコヤ貝の中で、大切に大切に育まれて育った宝石です。他の宝石とは異なり、生物体内で形成される特徴があり、そのため、大切にされるという意味合いが特別に感じられることになるのです。
真珠は貝の体内で生成される生体鉱物である。貝の体内に入った異物を核として、カルシウムの結晶(霰石)と有機質層(主にタンパク質)が交互に積層し、真珠層が形成される。(真珠――出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
イエスはここでは、価値あるものの代表として、真珠のことを挙げています。しかし、言葉は様々な反射の光をもっており、この真珠という言葉が運ぶ大切にするという意味は、やがて、神が一人の魂を大切にする、というところにまで及びます。
つまり、あなたがたは、その真珠です、というのです。高価で尊いのです。
箴言でも、「有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を」(31:10)と記されています。これは逆に言えば、真珠がこの世で最も貴いものである、という意味です。
ところでこの説教では、実は、大切な部分が語られていませんでした。それは、上からの知恵であったので、その場では隠しておくことに意味があったわけなのですが、私はその後の歓談の中で、その隠された部分を明かして戴きました。
それは、黙示録の記述でした。
また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。(ヨハネの黙示録21:21)
これは、新しい都エルサレムの叙述です。そこには夜がなく、閉ざされることのない門があります。門は、夜の闇を狙ってくる外敵を防ぐために、夜は閉められることになっているのですが、もはやその夜がなく、神の光でつねに輝いているために、開いたままなのです。
その門が、真珠でできているといいます。
神の目から見れば大切に価値があると見なされた、救われた人々は、まさにこのような真珠なのですよ、という、大きなスケールで描かれた幻……それが、真珠の譬えから展開して、この説教者に与えられた、神のビジョンでした。
なんという福音でしょう。
このように、真珠の福音は、選ばれた者を大切に価値を以て取り扱う、神の愛を指し示すものとなりました。
よい説教は、よい霊感を生みます。それを聞いていた私の中には、さらに神の霊が次の連想を生み、涙が止まらなくなっていました。
ウィキペディアの説明を見てください。「貝の体内に入った異物を核として」とあります。
そうです。貝にしてみれば、この核を植え付けられるというのは、苦痛なのです。異物が入り、苦しい。痛い。だから、その傷を癒そうと、自ら液を出します。カルシウムでその傷を塞ぎ、どんどんその傷をまったくないようなものとしていきます。血小板が人間において何をするかを思い出すとよいかもしれません。
こうして傷をくるんだものが、真珠です。
大切に育んでくださるのが神だとすると、神は、自らに傷を受けたことになります。その傷の痛みをやわらぐためにつくられていったのが、真珠だというのなら、これはまさに、イエスの十字架の傷にほかなりません。そこで傷として磔にされたのは、人間の罪というものでした。その罪をすべて覆い隠して、もはや無きものとする作用を通して形成されたのが、真珠でした。罪をくるんだ愛が、真珠だったのです。
いえ、私はそんな他人事のようなインスピレーションで涙したのではありません。
その罪とは、誰の罪でしょう。あの人、この人? そんなことを言うクリスチャンは、いるはずがありません。私自身が、イエスを鞭打ち、イエスを十字架につけた、そう思わないでクリスチャンだと名乗っているとすれば、それは偽物と断言してよいでしょう。
真善美なる神に入った異物とは、まさにそのような悪であり、罪であり、傷であることでしょう。私が、その傷をつけたのです。
私が、貝なる神に、めいっぱい傷をつけました。しかし、神はその傷を平然と受け、それを核として、うるわしい高価な真珠を作りました。ただその傷を覆う愛の形を示して、真珠というしるしを見せてくださったのです。しかも、その真珠があなた自身なのだ、とまで言って……。
神はただ、人間を可愛い可愛いとちやほやするために、聖書を与えたのではありません。
人間の救いの背後に、人間が罪をどれだけ自分のものと捉えているかどうか、問い直すことが、私たちに課せられています。それを通って後に初めて、神は、人間を貴く扱うという約束をなさっているのです。
しかも、新しいエルサレムに至るまで、ずっと。
なんという福音でしょう。