オンリー・ワン

2003年6月

NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
    世界で一つだけの花(作詞・槇原敬之)

『僕の生きる道』は、2003年最初のクールに輝くドラマでした。そのエンディングテーマとして、この「世界で一つだけの花」が登場しました。ドラマで聞いたときから、私は、こうした素直な歌詞――素朴すぎるにしても――が、世の中に受け入れられたらいいな、と思っていました。結果として、この曲は、記録的なヒットとなりました。相変わらず歌唱力の点では素人のようなSMAPではありますが、素朴な曲と分かりやすいメッセージのこめられた歌詞に、人々が反応したのです。
 この歌は、折しも攻撃の始まったイラクに対するアメリカの戦争への、反戦の願いをこめた歌として広まりました。大ヒットは、この反戦歌と呼ばれたことにより生まれたのかもしれません。
 誰が一番だとか、誰が正しいとか勝ったとかいうことよりも、一人一人がそれぞれ、かけがえのない命を背負っているのだ。だから、破壊をもたらす戦争は決して正当化されないのだ。そんなふうに、人々は、「オンリー・ワン」の言葉をかみしめて叫びました。たぶん、若い人ほど、より深く心にこの言葉が刻みこまれたのではないかと思います。妙にすれたおとなよりも、まだ純粋な思考に戻りやすい若い魂の中に。
 学校教育の現場でも、この歌は注目されないはずはありませんでした。六年生のお別れ集会で取り上げられたのは何校あったか知れません。初夏の運動会でも、盛んに使われました。教育現場で、安心して取り上げることのできる、すばらしい歌であることに、間違いはなかったでしょう。成績の順番とは関係なしに、一人一人が尊い存在であることは、子どもたちにも、先生にも、その通りだとうなずかせるものだったのです。

パンダ

「オンリー・ワン」
 ただ一人のかけがえのない存在、という意味。
 改めて注目されたこの表現ですが、私は、この歌で初めて気づかされたような事柄ではありませんでした。むしろ、毎週毎週、教会学校で伝えていることそのものだという気持ちでしたし、教会の説教でも昔からこうした考えを教えられてきました。

遠くから、主はわたしに現れた。
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し
変わることなく慈しみを注ぐ。(エレミヤ31:3)

 私は、このエレミヤへの主の言葉が、響いてなりません。それはまた、次のイザヤ書の言葉が強烈に背後で支えているからだろうと思います。

わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ43:4)

 ここでいう「あなた」はイスラエルの民全体を指すのですが、それを個人的に聞いて悪いということはありますまい。実に主なる神は、イスラエルというただひとつの民族をまず愛し、導いてきたのではありませんか。それは、時に反対者によって、えこひいきだとか、不公平だとか非難されますが、それほどまでに「ただひとつの」者を愛するという神の姿は、むしろ真実のように見えてきます。八方美人ほど、偽善的なものはないからです。
 このようなメッセージは、教会ではふつうに行われていることであり、その際の表現として、「ナンバー・ワンではなく、オンリー・ワンなのだ」という言い回しも、しばしばなされてきたことです。――というと、教会がこのSMAPの歌を先取りしていたことがそんなに自慢か、とお叱りを受けるかもしれません。もちろん、そんなことを言うつもりはないのです。そうではなくて、若い人々、世間の人々が、聖書のメッセージを受け止めてくれる心の状態である点が、私はうれしくて仕方がありませんでした。
 つまり、こうした誠実なメッセージに人々が心惹かれるのであるとするなら、聖書が語る福音にも、心が惹かれるはずだ、という希望がわいてきたというわけです。

パンダ

 ただ、ある本に、こんなことが書いてあったのが気になりました。若い人々の中に、自分は変わっている、と口にするタイプの人が多くなってきている、と。「私って、変わってるでしょ」という調子で自分のことを語りたがる、というのです。自分のことを「個性的だ」「変わっている」「特別だ」と思っているらしい――いえ、そう思いたがっているように感じられてならない、と述べてありました。なぜなら、その若者がことさらに個性的であるとか、変わっているとか、思えないからである、とも。
 たしかに髪の毛の色を変えたり、服は人と違うものを目指しているようなことは、あるかもしれませんが、頭の中はこちらが予想したとおりの、いわばステレオタイプな考え方の返答しかよこしてこないというのです。平凡な生活をしているようにしか見えない人に限って、自分は変わっている、と言いたがっているのだそうです。
 自分は特別な存在だ、と自分で思いこみ、自分に信じさせ、自己陶酔に浸っている――筆者は、そのように語っていました。
 やや言い過ぎかもしれませんが、もしその通りだとすると、SMAPの歌を受け入れたがった心理も、よく理解できるような気がします。あの歌で、「オンリー・ワン」が強調されているのは、自分たちの自己理解が正しいからだ、と勇気をもてるような気がして……。

パンダ

 しかし、聖書が語る「オンリー・ワン」は、決して、オンリー・ワンだと思いたいのでそう信じる、という性質のものではありません。神は、エレミヤやイザヤに対して、極めて個人的に語りかけました。神はそのとき、ただ一人の存在としてのエレミヤないしイザヤに、言葉を突きつけたのです。
 エレミヤもイザヤも、預言者と呼ばれる人物でした。日本語訳だとややこしくなるのですが、預言者は「よげんしゃ」と読むにしても、予言者とは異なり、未来を予知するということは関係がないとされています。神の「言」を「預」かる「者」とされており、いわば霊感がはたらき、神の言葉を直接聞き、知ることのできる、選ばれた魂である、ということになります。
 それは、聖書の中にたくさん描かれています。エリヤもその一人です。しかも、世の中すべてを敵にまわしてさえも、神の前に立つただ一人として、戦う力をもっていました。

エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。……」(列王記上18:22)

 このような力の源泉は、何なのでしょう。それが信仰というものなのでしょうが、私たち現代人が「信じよう」とする思いと、まさに神が共にいる現実の中でしか生活することができないような、当時の預言者の胸にある思いとでは、次元すら異なるように考えられてなりません。

わたしはあなたの背きを雲のように
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、
わたしはあなたを贖った。(イザヤ44:22)

 神は彼らに対して、「あなた」と呼びかけられました。ドイツ語で言えば、二人称における、どこか他人行儀な Sie ではなく、du という親称で、神はある人にお話しになったのです。

パンダ

 神の言葉を聞く。神が「あなた」と呼ぶ。それは、プロテスタントの精神にぴったり合うような事柄です。ルターは、「万人祭司」を説きました。教会の司祭だけが神の言葉を取り次ぐことができるという特権にある、という前提で、いわば堕落していた16世紀当時の教会の姿に疑問を呈し、ルターは宗教改革という歴史に残る仕事をしていくことになります。そのとき、すべての人間は、一人一人が神の前に立ち、神の言葉を聞く立場にある、と主張しました。すべての人が、言うなれば祭司なのである、と。その意味では、私たちは誰もが皆、神の言葉を等しく聞く立場にある、預言者ということになりはしないでしょうか。
 注意すべきは、預言者という響きには、悪いイメージも加わることがある、ということです。「預言者気取り」という言葉があります。自分だけが神の言葉を聞いて自分だけが正しいかのように人々を見下して、正義を説く者のことをいいます。「預言者気取りでものを言うな」というふうに。神の言葉を代弁するということが、端から見ると、自分だけが正しいと威張っているかのように目に移ることがあるようです。また実際、思い上がってしまっていることもあるでしょう。私も気をつけなければなりません。このサイトのコラムがすべて、預言者気取りで行われている、という批判を浴びるかもしれませんし、実際傲慢な思いに染まっているということが、あるかもしれません。いえ、あるのだろうという前提をもちながら、それでも何かを発していこうとする姿勢であるのが、せいぜいのところなのでしょう。
 誰もが聖書を読み、それを神の言葉として受け取るならぱ、万人祭司とは、万人預言者という意味になります。聖書を読むならば、誰もが神の言葉を預かることになります。神の前に、たった一人で立っている者として。

パンダ

 神の言葉を、特別よく聞くようになるタイプの人は、たしかにいます。牧師や神父は、いわば専門職ですから、そういうことはよくあるでしょう。そこで陥る危険性として、自分が他の人よりも正しい解釈をしているゆえに、人より高いところに立って、人々をリードしてやろう、という気持ちが強くなる、という可能性があります。
 リーダーとしての立場は当然あってもよいはずのものですが、リードするがゆえに、他よりも偉くなり、そして他に自分の信念を押し付ける、はては自分と意見の異なる立場を迫害するようなことをすると、もはや神の言葉を聞いているとは言えなくなるでしょう。いえ、たしかに聞いているのかもしれませんが、もはや神の言葉を実行しているのではなく、神に敵対しているという可能性さえ……。
 私はかつて、というより最初にキリスト教会に足を踏み入れたとき、そこは、異端に限りなく近い教会でした。ですがこちらはもう聖書にしか救いがないと思っていた時分ですから、教会がどうのという知識はありませんし、そういうことにはあまりこだわりがありません。教会と名がつけば本物だろうと思い、下宿の近くの教会に足を運んだのでした。
 どうも「救い」という考え方が、聖書に書いてあるものと違う、と感じました。FEBCという放送局で聞いていた内容とも違う、特別な救いの方法を激しく強調しています。でも、それについていくしかありませんでした。自分が選んだのではなく、神が選んだのだ、というヨハネ伝の言葉に従って……。
 その教団には、教祖と呼ぶに相応しい人がいて、ほとんど神のように崇められていました。昔中国で、死人を生き返らせた奇蹟を行ったとかで、絶対的な信奉者を得て、組織を作り拡大していったのです。聖書の中には神の御名が七つだけあると言い、その七つの御名を称名することにより救われる、というのが教団の根本教義でした。誰もが聖人にならなければ救いがないかのように言われ、組織に少しでもはじき出されることを恐れているようなふうでした。
 こういった教義と規律のため、他のキリスト教会との交わりはもちろんありません。それどころか、他の教会には救いがない、ふつうの聖書の読み方をする教会はだめだ、ということが強調されていくものですから、当然そうした交わりができるはずがなかったのです。
 おかしい。私は、まだその教団に関わり始めたばかりでしたから、聖書にかかれてることとは食い違いが多すぎる、という疑問を消し去るほどにまでは、洗脳されてはいませんでした。そのとき、ある女性が現れ、話をするうちに、その女性も、私のような理屈によってではありませんでしたが、感覚的に、何かおかしいと感じていることが分かりました。いろいろなことを経て、その女性と、その異端的な団体を出ることになりました。詩篇143編が、その舵取りとなりました。

朝にはどうか、聞かせてください
あなたの慈しみについて。
あなたにわたしは依り頼みます。
行くべき道を教えてください
あなたに、わたしの魂は憧れているのです。
主よ、敵からわたしを助け出してください。
御もとにわたしは隠れます。
御旨を行うすべを教えてください。
あなたはわたしの神。
恵み深いあなたの霊によって
安らかな地に導いてください。(詩篇143:8-10)

 たしかに神は、この祈りをもって私たちを導いてくれました。そして彼女は今もなお、私の助け手として私のそばにいるのです。

パンダ

 比べて優位に立つかどうか、を問題とするのは、少なくとも聖書からすれば、的外れです。先の者が後になり、後の者が先になる、という言葉が幾度となく繰り返される新約聖書においては、そうした世間的な――〔神に対しての〕人間的な――価値基準は崩壊してしまうのが当然なのです。現世がすべてである、金こそが尊い、長いものには巻かれろ、という処世術ではない、神の創造の秩序が描き出されています。まさに、ナンバー・ワンを考慮するのではなくて、オンリー・ワンが基準です。神に愛されたかけがえのない一人としての自分がここにいて、期待されている、というメッセージです。
 聖書を生きる支えにしている人は、基本的に皆、この神の前にオンリー・ワンだという愛を支えにして、生きています。そう言っても過言ではないでしょう。世界には、そうした人が、少なからずいて、今日もまた、あらゆる状況の中から光を見いだして立ち上がっているのです。



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