モラル・ハラスメント

2005年4月

 新聞の特集で初めて知った言葉です。モラル・ハラスメント。
「いやがらせ」という意味の「ハラスメント」では、性的いやがらせとしてのセクシャル・ハラスメントが真っ先に有名になりました。また、大学という学問の場における、アカデミック・ハラスメントもだんだん知られるようになってきました。
 何もかもが、「いやがらせ」というレッテルを貼られるというのも考えものでしょう。そんなことをすると、すべての行為がハラスメントになります。嫌な思いをする人が一人もいないなどということを想定しにくいものですから。
 モラル・ハラスメントという概念は、セクハラなどに比べると、法的救済が実現しにくいものだと捉えられていました。つまり、言葉の暴力は因果関係や立証の点で難しいのではないか、という意味です。

 そもそも、モラル・ハラスメントとはどういうことを謂うのでしょう。
 しばしば道徳的題材を持ち出して、相手の人格そのものを否定するあるいは非難するという言葉の暴力のことのようです。
 
 記事を読んでいるうちに、これは私のことだ、というふうに思えてきました。
 私は若い頃、そんなことを平気で言うタイプだったのです。
 自分が偉いなどという自覚はなかったと思うのですが、相手を非難して止まない行為は、やはり自分を高めていることには違いありません。今にしてもなお、そんなふうな自分がいるという思いに愕然とすることがありますが、無自覚にやっていることがなくなった、とは自分ではやはり言えないものでしょう。

 同じ、人に注意をするにしても、ものの言い方ひとつで受けとる印象もずいぶん違います。また、可能なかぎり気を配って注意したところで、それを逆恨みするタイプの人がいるのも事実です。その人の身になって警告することが必要だなどと言いますが、実際上それをうまくやるのは、大変難しいことです。
 でも、指摘しなければならない場合があります。黙っているわけにはゆかない、と。
 それでも、相手の人格を最大限に尊重したうえで、諭すということは、大人のつきあいとしては、心得ておかなくてはならないことでしょう。

 私は、今どちらかと言うと、それを言われる方の立場です。
 組織の上に立って、人に命令し、指摘するという立場ではない以上、何か言われる側にまわっています。ただし、生徒に対しては、別です。生徒に対しては、命令や指示をする立場です。子どもたちの人格を否定するような言動をしていないか、絶えず自らを見張っていなければなりません。これは、教師たるもの、陥りやすい罠の一つだと思います。
 しかし、企業組織の中では、専らそうしたいやがらせを受ける立場の者として、不愉快な思いをすることも、多々あるわけです。
 言った方は、たぶんさほど自覚がないと思われます。しかもえてして、権力のある人本人がいやがらせをするというよりも、その権力の傘につき、いわば犬のようにそれに忠実に従おうと意図する立場の中間職あたりが、もっともハラスメントに勤しんでいるのではないかと想像されます。

 言う方は気づかないのかもしれませんが、聞く側としては、少し鋭敏になってくると、言う者の言葉の端々に、どういう意図が隠されているか、見抜いてしまうものです。実に具合の悪いことに、言う本人がそれをそうと自覚していないケースが殆どなので、それを指摘しようものなら、そんなことがあるはずない、と顔を真っ赤にして怒りを呼ぶことになりかねません。そのため、弱い立場にいる者は、容易に上司を批判することはできないのです。

パンダ

 新約聖書を読んでいると、きっと誰しも気づきます。「ファリサイ派」や「律法学者」が、つねにイエスの対立側にいる、と。
 私も、若いころ聖書に触れたとき、どうしてこの「ファリサイ派」はこんなにひどく言われなければならないのだろう、と疑問に思ったことがあります。その疑問の故に、若いころに聖書にのめり込まなかったのだろうと思うくらいです。
 ファリサイ派というのは、律法のきまりを忠実に守って、立派な生活をしている人々です。知恵への造詣も深く、正しい生活をしています。そん人々に対して、イエス・キリストはどうしてこんなにも辛辣な言葉を浴びせ、否定し、ぼろくそに言わなければならなかったのだろう。聖書の解説も何もないそのころ、私はそんな疑問を抱きました。

 新しい新聞の記事を参考にするならば、このファリサイ派の人々は、思い切り、モラル・ハラスメントをしていたのではないか、というふうに思えました。
 律法を守れない人や、いわば「悪いこと」をする人のことを、徹底的に糾弾する。
 本来、それはなんら文句を言われることはない行為です。悪い人を悪いと言って、悪いはずがありません。悪いことをした人が悪いに決まっているからです。
 確かに優しさはないかもしれませんが、悪いことをごまかすことが良いことだとも思えません。悪いことは悪いのです。世界を正しくするためには、悪いことを否定することが良いことである、だから律法を守れない人は徹底糾弾されるべきである――ファリサイ派の考えに、間違った点はありません。すべて、その通りに違いありません。
 イエスは、そのようにして「悪い」と呼ばれた人々の側に立ちます。
 彼らは、悪いことをしようとして悪いことをしているのではない、どうしても「正しい」ことができないのだ。それよりも、彼らを「悪い」と一方的に非難するファリサイ派はどうだろう。相手をひたすら「悪い」と決めつける眼差しは、結局、自分のことを「正しい」と前提してやっているのではないだろうか。自分が正しいからこそ、相手が悪いと強く言える。自分で自分のことを義認して、自分は正しいが相手がひたすら間違っている、という考え方をするならば、同じような考えをもった者が対峙するとき、争いになるのは明白です。
 律法を守れない人々は、人間として腐っている。そうした前提から語り続けるファリサイ派は、イエスにとって、許し難い存在でした。
 今の新聞で言う、モラル・ハラスメントが成立しています。自分が正しいものである以上、相手が端的に間違いです。そして、いつの間にか、自分自身が「神」になってはいないでしようか。なっている、と思う人は幸いです。健全な自己認識をしていらっしゃいます。しかし、世の中には、自分が間違っていることなどありえない、と固く信じている人もいます。説得しても難しいので、いつしか聖霊がその人の心をほぐすことが出来るよう、違う視点をもつことができるよう、祈ることが肝要です。

 不思議なことですが、言葉の端々に、そのあたりの背景が見え隠れします。
 同じ指摘をするにしても、決して相手の人格を攻撃しない人がいます。他方、相手の人格を根底から否定するような言動をとる人もいます。
 組織人は、なかなか上司を選べません。命令系統で上に立つ者が、部下の人格を否定するかのような言い方をすることに気づいたとき、私たちは、それを端的に否定する云々ではなく、祈り始めなければならないかのようです。
 どうか自分が他者を一方的に非難していて自分が神のような上位に立っているということがないように、守ってください、と。


Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります