人に迷惑をかけない

2006年8月


 子どもに対して、「人に迷惑をかけないようにせよ」と諭す親の姿が、かつてありました。今でも、そのフレーズの響きがなんとなくよいものだから、話す親がいるかもしれません。

 日本人が挙げる理由として、特異なものだと指摘するような声も昔からありましたが、事の善悪そのものでなく、周囲の人への配慮を優先するという意味だからでしょうか。そこから、和を重んじる農業国の性格が云々、という説明も、施されることにもなりましょう。

 この和の精神が、良いとか悪いとかいうつもりはありません。どちらの面もあるでしょう。ただ、これを命題とするときに、私たちの心の中に陥りやすい罠のようなものがあるのではないか、という視点から、気をつけるべきことを考えてみましょう。

 

 人に迷惑をかけない。

 ここには、根本的に、二つの問題点があるように思われました。

 

1 悪事に対抗しても、悪事をなした者にとって迷惑をかけることになる。

 分かりにくい表現ですが、たとえば、禁煙区域でタバコをふかしている人がいるとしましょう。その人に、ここではタバコは吸わないでください、と注意しました。タバコを吸う者はそれを聞き、不愉快になります。「オレにとってはそんなことを言われるのは迷惑だ」

 

2 そもそも、他人に迷惑をかけない、というようなことが、ありうるのか。

 生まれた子どもは、親にすべてをしてもらいます。夜泣きをして親の睡眠時間を奪います。いえ、何もそんなことを言わなくても、私たちが日々生活していく中で、人に何かを「おねがい」と頼んだら、相手にとっては、一種の迷惑となるわけです。つまり、誰かに何かをしてもらうということは、生きていく中で避けられないことではないか、ということです。

 

 最初の場合、「迷惑」という言葉は、自分勝手な響きで聞こえたことでしょう。自分のほうが迷惑をかけておきながら、それを制止されると「迷惑だ」と叫ぶのは、自分勝手なことだ、と。通常の道徳ではそう理解されます。

 それにしても、果たしてそれが悪事であるのかどうか、判断が難しいケースもあります。もとより、「自分は悪事をなしている」と堂々とやっている人は少ないのが通例ですから、自分で「よい」と信じてやっていることに、反論されると、それを迷惑だと感じるのはごくあたりまえのこととなります。

 つまり、迷惑という言葉には、本来善悪の基準が明確であるという前提がないわけです。自分の行為を阻む存在は、自分にとって迷惑なのです。

   人に迷惑をかけない、という意味は、相手がやろうとしていることにケチをつけない、ということになる可能性があります。

 反抗期の息子や娘が、好ましくない行動をとりはじめたときにも、注意すれば、子どもにとって「迷惑」なのです。

 極端な例では、自殺をしようとする人を止めれば、「迷惑」なのかもしれません。それでいいかどうかは別として……。

 

 後者の場合、実はもっと重い内容が含まれていると言うことができます。

 人に迷惑をかけてはいけない、という格率を抱きながら、その実人の世話になっている。これはジレンマです。人間の心は、ジレンマに対して、それをジレンマとして残すことはしたくありません。残るならば、ノイローゼになってしまいます。

 そこで、「私は人様に迷惑などかけていない」という方を押し通すように考えることになります。意識するしないに拘わらず、自分は人に迷惑をかけてはいない、と考えて生きていきます。

 

 

 さて、「迷惑」という言葉は、一面的ではなく、おそらくいくつかの次元のようなものがあろうかと思います。ですから、言葉尻のように、ある一面からのみ捉えて、矛盾点を指摘しても、あまり役には立たないでしょう。

 素朴に考えて、人に迷惑をかけない、という心構えそのものは、悪いものではありません。

 しかし、「私は迷惑をかけてなどいない」と思いこむとき、何か危険性が潜んでいるというのは、確かです。もしかすると、それに気づいた狡い人間が、自分に都合のよいようにのみ、「迷惑」という言葉を駆使して、人を騙すような行為に走るかもしれません。

 いや、そんなことまで考えなくても、私は迷惑をかけていない、私は悪いことなど何一つやっていない、「私には罪がない」と豪語する心が、そこに隠れているとすれば、この「人に迷惑をかけない」という心がけにも、重たい第一歩が潜んでいると捉える必要があるかもしれません。

 

 自分で自分を正当化するために、このフレーズを活用していくとすれば、私は人に迷惑をかけるはずがない、と自分で自分を評価し、結局は自分を「神」とするところまで高まっていくことになるのです。

 そんな大袈裟な、と思うかもしれませんが、人間の歴史は、しばしばそうした原理でおぞましい事件を刻んできたことを、私たちは学ぶことができるでしょう。

 

 聖書の中には、そのような事例が、たくさん記録されています。とくに旧約聖書は、罪の歴史だ、と認識されることがあります。

 歴史は、人に迷惑をかけない、という原理から動いているのかもしれません。

 え? 敵を殺しておきながら、迷惑をかけないとは何事だ、ですって?

 簡単な理由があります。敵は、「人」ではないのです。


Takapan
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