「不正な管理人」のたとえ

2003年10月

 

「不正な管理人」のたとえと呼ばれるものがあります。


16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。 16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
(ルカによる福音書16:1-13,新共同訳聖書-日本聖書協会)
パンダ

 難解さでは定評のある、ルカ伝16章のたとえです。不正な管理人が、阿漕なやり方を褒められるという話で、ひとつ間違えれば、神が不正を奨励しているととられかねないたとえとなっています。

 正統的な解釈というのがあるのでしょう。信徒が質問しにくると、牧師はこう答えればよい、という模範があることと思います。
 私は、よく分かりません。説明しようとすればするほど、混乱に陥ってしまうのです。そこで、説明を諦めました。想像の翼を広げて、正しくはないだろうけれども、自由にこのたとえを楽しんでみたいと思うようになりました。


16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。

 イエスは、この話を「弟子たちにも」向けています。ファリサイ人や律法学者に対して、サマリア人のたとえを通じて隣人に気づかせるようなことをしておきましたが、その後、この奇妙なたとえは、「弟子たちにも」話して聞かせています。

 金持ちは権威ある神のような立場であることでしょう。とすれば、この管理人は、弟子たちのことだとみる可能性があります。それが、弟子たちが神の財産を無駄遣いしているというのです。しかも、そのことを「告げ口」する者があります。誰でしょう。告発する者というのは、聖書では、悪魔と相場が決まっています。サタンは、神に人間の罪状を告白するのが仕事です。イエスの弟子たち――そしてそれを思い切って言いましょう、それは十二弟子という固有名詞で示されるべき人々ではなく、イエスに従う者たち、現在もなおイエスを信じており、イエスの後に従いたいと願う、クリスチャンたち、教会員たちの姿がここに描かれています――は、悪魔の告発を受けるのです。「こいつは、クリスチャンだと口では言いながら、神から与えられた恵みを無駄に費やしていますぜ。金を第一とし、異性におぼれ、欲が深く、人を助けません。こんな奴、もうだめですぜ。いいかげん、滅ぼしてしまいましょうや」


16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

 神は正しいお方です。悪魔に対して、端的に嘘つき呼ばわりするようなことはありません。それは事実なのです。悲しい顔をして、クリスチャンたる私の前に現れます。「もうすぐお前の地上での命が終わる。どうやら、この地上で生きる間、神の恵みを口には上られておきながら、行動の点では、つまらないことばかりしてきたようだな。やがて地上の命が取られるから、私の前で申し開きをするための準備をしておくがいい。今まで、クリスチャンとして、神の言葉を人に伝えるように命じておいたのだが、もうそれを続けることはできなくなった。後で会ったら、自分のしたことを自ら告白して私に示すがいい」

 もしかすると、私は、他の魂の管理まで司っていたのかもしれません。「もう管理を任せておくわけにはいかない」という言葉からの連想です。
 クリスチャンの私は、真っ青になります。もっと人生は長いかと思っていた。死ぬのはもっと先かと予想していた。こんなに早くくるのか。すると、神はこの生きているときの私の姿によって、天国かそうでないか振り分けるというのだが、私はどうだろうか。信じてはいますよ、神さま。分かっています。でも、清く正しく美しくなんて行動が、できなかったのです。そのことをどうやって言い訳すればいいだろうか?

 どうしようか。今さら行動を正そうとしても、その暇がない。土下座して謝るのも、なんだか恥ずかしい気がする。今まで自分のことを、敬虔なクリスチャンだと見ていた世間の目の前に、それを裏切る自分の姿を浮かび上がらせるのは厭なものだ。慌てて行いを正したところで、それで神がこれまでのことをなかったことにするなどとしてくださるだろうか。いや、ないと思う。どうしよう。どうしよう……。


16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

 そうだ、とクリスチャンたる私は気づきました。今からでも遅くはない、急いですればよいことがあるのではないか。挽回できるチャンスは、まだ命のあるうちには残っている。今からでも人に喜ばれることをしよう。人を愛するようなことをしよう。今まで、自分の利ばかり考えて生きてきた。愛だなどと口では言いながらも、しょせん自分のためにばかり力を費やしてきた。そうして、ともすれば神の福音を、ほかの人々に対して、罪を責めるためにばかり刃の如く突きつけてきたのだ……。

「神はこのように、人間には罪があるとおっしゃっている。今信じなければ、永遠の苦しみを味わうことになるぞ」

 人々の心に借金を負わせるかのように、神の律法を突きつけてきた私は、今まさに自分がその立場に置かされてしまったことに気づいたのです。ならば、神の恵みはそんなものではない、と今からでも言い直せばどうでしょうか。


16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』

 あなたにはどんな罪があるのか。そう聞き出した後、神はそんなに大きな罪だとはお考えになっていない、と言いました。ただ十字架の救いを信じるならば、あなたは救われます。自分では取り返しのつかない罪だと思い込んでいることでも、御子の贖いによって、許されるのです。神はすべてをお許しになります。

パンダ

 強引な理解は、およそ神学的には意味のない読み方でした。でも、この読み方は、このたとえの後のコメントに対して、少し納得できる要素を含んでいます。


16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 この世にまだいるうち、最後に残された時間をなんとか人のために使うことができるように、人間は変わることができるというのです。そして、パラドックスのように、人のために尽力することが、自分の命をも救うことになります。こうして人に優しく振る舞うことで、金、つまり罪の赦しについて語ることで、ついに永遠の命を与えられることになるというからです。いわゆる往生際が悪い最期ではありましたが、その投げやりなやぶれかぶれの行動が、したがって罪は赦されるのだと知らせたときのその罪という問題が、不正にまみれた富だと隠喩にされているとするならどうでしょうか。


16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。

 それくらい懸命に、罪の許しを宣べ伝えることなしには、神のしもべとしての役割を果たしてことにはならないでしょう。じたばたと自分の末期のために焦ったとしても、そのことに懸命になれば、きっと天における大きな祝福の礎となることもできるのでしょう。


16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。

 ほかの人の罪について、追いつめるようなことをするのでなく、あなたもまた罪は赦されているのです、と伝えることなしには、私もまた、神によって罪に定められたことになるでしょう。


16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 罪を人に押しつけておくとは、罪を道具に使うようなもの、つまりある意味で罪を大切に愛しているようなものかもしれません。神に従うというのは、そういうふうに罪を道具として弄ぶようなものではありません。自分が神に受け入れられる存在になりたいと思うなら、自分もまた、他人を受け入れていくはずでしょう。自分が自分の罪を赦してもらいたいと願い、あるいは赦されたと信じるのと同様に、ほかの人々も、それぞれの罪が神によって赦されていくことを、よい知らせとしてどんどん伝えていくべきでしょう。

 私たちは、神と罪とに同時に仕えるわけにはゆかないものです。神を愛するとするならば、罪に苦しむ人々をも、愛するのでなければなりません。人が罪で苦しみ、あるいは罪あることを知らずして滅びへの道を一直線に走っているとすれば、そこへ福音をもたらすことこそが、神を愛するということになるでしょう。

 それでこそ、キリストの弟子として、歩むことができるというものです。




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