パウロの協調性

2002年12月


 小学生のころ、通知表に、「協調性に欠ける」と記されたことがありました。

 自分では、よく分かりませんでした。自分で自分が評価できれば、そんなことを言われなくて済んだでしょう。私は、どちらかというと、地味な、ちょっといじめられるようなタイプの子と親しくする方で、派手な目立つグループに属するわけではありませんでした。そのことだったのでしょうか。いえ、たぶん先生は、私のかなり本質的な部分をきちんと見抜いていらっしゃったのだろう、と思います。今になって思えば、私はたしかに「協調性」に欠ける部分があると思います。

 人付き合いがよすぎるほうではなく、自分の生活のペースを崩しませんし、何でもはいはいと言うことをきくわけでもありません。でも、頼まれてイヤとは言えないし、無理なことでも不平を言わず、かなり我慢強いとは思うのです。ただ、その我慢も限界にくると、プツンと切れることは、あると思います。

 こうした性質は、たぶん、求められている「協調性」とは異なっているのでしょう。

パンダ

 新約聖書の中で、「協調性」が問題になる部分はあるのでしょうか。

 聖書は、一方では神と自分との関係が最重要課題であり、その柱を崩すことは考えられない世界でもあります。でも、新約でも特に使徒言行録から書簡へ移る時期には、教会という共同体としての生き方が強調されていきます。そこで協調性が問題にならないはずはないでしょう。


 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
( ガラテヤの信徒への手紙2:11-14,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 パウロは、ペトロ(ペテロともいいます。上の引用箇所では「ケファ」というあだ名で呼ばれています)がユダヤ人たちの間でいい顔をしていることに、文句を言っています。ユダヤ人たちをまとめ上げるのに、ペトロは比類なき才能を発揮したと思われますが、それに対して、パウロは激怒しています。

 それは、ペトロが仲よくしているからではなく、ペトロが福音を曲げていると考えたからでした。パウロにとっては、まず福音の原理が最重要課題であって、あらゆる地上の平和も、その原理に反したものとしては、あってはならないものでした。人間関係と福音原理とが衝突すれば、パウロは、迷うことなく福音の原理のほうをとったのでした。

 しかしペトロは違います。イエスの弟子たちが、仲よくひとつにまとまっていくようにしなければなりません。いくらイエスを信じた人々が集まったとはいえ、しょせん一人一人は人間です。そして強烈にそれを統率する力があるのは、イエスその方なのであって、残された自分を含めた弟子たちに、それほどのカリスマがあるかどうかは疑問だと感じています。弟子たちの共同体の平和に亀裂が入ってはなりません。ローマやユダヤ人たちが敵として取り囲んでいます。その中で、イエスの弟子たちは、一つにまとまっていなければならないのです。ペトロは、その集団を任されたと自覚しています。理屈や原則がどうのというのでなく、とにかく目の前の人間関係が大切に感じられたからといって、私たちがペトロを責めるわけにはいかないでしょう。

 けれども、パウロは責めました。イエスの教えはそんなものじゃない、自分のように原理に従って理解し、行動せよ、人の機嫌をとってあれこれと違うことを言うな、と。

 協調性の点からみると、どうでしょうか。明らかに、パウロには、協調性がないし、ペテロには協調性がある、そう言わざるをえないはずです。

パンダ

 これは私の感覚ですが、時代劇の中に、面白いと思う部分と、どうしても不快に感じる部分とがあります。不快に思うのは、正義の味方が、悪代官(代官でなくてもいいのですが)をスカッとやっつけるまさにその場面です。悪代官の部下たちが大勢襲う中、ヒーローは鮮やかに剣を振るい、次々と倒していく様子がいやなのです。その部下たちは、忠実に職務を遂行しているだけなのです。切られていくその部下たちにも、家族があるでしょう。子どももいるでしょう。お父さんは、殉職するのです。しかも、切った相手は正義の味方ですから仇討ちも何もできない立場としてであり、お父さんは悪いことをしたから殺された、とレッテルを貼られてしまうのです。死んでざまあみろ、と捨てられてしまう……。

 何も娯楽ものに、そこまで感じ入らなくてもよいという声もあるかもしれませんが、そうした想像力もなしに過ごす人が、ニュースやワイドショーである映画関係施設が悪役になると、その施設を爆破するといたずら電話をかけて混乱を起こすようなことをしていくことになるのではありますまいか。

 とはいえ、協調性という観点からすれば、この人たちは、どうなのでしょう。やはり、上司や仲間たちと、十分協調していたからこそ、共に正義の味方と闘ったということになるように思えます。私は、やはり気づいてほしかった、と思います。自分が、何か悪の原理に従うように動かされていることに。手の届く範囲にいるメンバーたちとは、同士として仲よくやっていけたかもしれませんが、広く一般の視野からすれば、それは悪の原理の中にあるということに、気づいていく必要があったと思います。

 中には、それが悪だと知りつつ、職務を遂行していった部下もいるかもしれません。

 そうです。牛肉を偽装した会社の人々は、十分に協調性がありました。だからこそ、上司や仲間、会社全体の利益を損ねないために、協力して偽装の手伝いをしました。もし協調性がなかったら、その輪を抜け出して、最初から告発をしていたに違いありません。

 医療ミスを隠し続けた病院関係者たちは、協調性がありました。なければ、すぐに告発したことでしょう。

 詐欺商法の社員も、同じです。

 やや状況は異なりますが、サリンを撒いたグループの一人一人も、そうです。彼らの間では、たいへん協調性があるのです。仲間と同じ心で協力してあれほどのこと(日頃の道場の運営や会員勧誘なども含めて)をやり通せるというのは、実に大した協調性ではありませんか。

パンダ

 何に協調するか、が問題です。彼らは、彼らの仲間内に対してのみ、協調していたのです。互いに協調できる範囲の者とのみ交わり、そこでの常識(つまりは社会では非常識)に忠実に従いました。その結果、一般的な判断からすれば、悪の深みにどんどんはまっていっていたに過ぎなかったわけです。

 ケータイを電車の中でチャカチャカし続ける人々を、私は憎みます。電車の中が電子波で満たされていき、危険な状態になるよう手を貸していることに気づかない人々を。座っている私の頭の横でケータイを使うようなこともありますから、私は恐怖のあまりその場を逃げ去ります。若者だけではありません。今はすでに老若男女かわりなく、そうした空気にあります。たぶん私は、協調性がないのです。そして彼らは、連絡を取り合う仲間と、実に仲よく協調しているのです。

パンダ

 教会も例外ではありません。

「家族的な教会」という言葉があります。規模の小さな教会について評される表現です。たいていは、褒め言葉に使います。人数が少ないから教会としてつまらない、という見方を避けるための社交辞令になることもありますが、教会に集う人々が少なくても仲よく温かく交わっている姿を示す言葉として、よく使われます。

 原理が神にあるならよいのです。しかし、もし人の顔色ばかりうかがい、人の和が第一となっていると、どういう「ずれ」が起こるか、心配です。人の機嫌をとることが目的になっていながら、それを神の御心だとずらして捉えるのは、ある意味で最も危険なことです。人間の原理を、神の名で正当化しようとするからです。それこそ、サリンを撒いたグループの思考方法と同じになります。たんに人間関係が調和されているという意味での協調性ならば、むしろ危険きわまりないという場合すら、あるのです。

 言うなれば、神との協調性こそが、第一の原理としてまず尊重されるべきものではないでしょうか。パウロは、神との関係が正されるならば、人の間での関係もよくなる、と考えているように見えます。しかし、その逆方向にはならないのです。まず、神の国と神の義が先なのです。パウロは、その点については、いくら強く言っても言い過ぎではない、と考えていたように思います。だから、ペトロの態度に我慢がならなかったのでしょう。

 私とパウロとを比べるなどは、おこがましくてできませんが、構図そのものは、似たものを感じます。私に「協調性」が欠けているように、パウロにも「協調性」が欠けています。しかし、どちらにも、神との協調性はまず作りたい、という願いが最初にあります。

 だから、パウロには、真の意味での協調性は、あったに違いありません。

 パウロがあれほど多くの手紙を遺し、何度も各地を旅したのも、そうした原理に支えられての行動だったでしょう。自分が育てた教会が、別の原理で汚されていくのが我慢ならず、幾度も幾度も手紙を書きます。長く長く手紙を書きます。八方美人的な顔は見せなかったにせよ、自らの内での神との絆の強さを確認しながら、パウロは、人々もまたその神との間にまず協調性がある人間になってくれるように、と祈りの手を熱くしていたのではないか、と私は想像しています。



Takapan
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