日本は宗教的に寛容である。
こんな節が、最近とみに幅を利かせています。理由は明白です。アメリカのビルに突っこんだ旅客機の映像を何度も見せられて、テロの恐ろしさが視聴者に刻みこまれたことがまず背景にあります。また、中東といえばパレスチナ、イスラエルの地での血で血を洗うテロが頻繁ニュースに流れます。イスラム教とキリスト教の争い、あるいはユダヤ教との争いをそこに見て、だから一神教は怖い、というのです。一神教は、自分の神だけが正しいと思うから、他の神が許せない。必然、そこに争いが起こると相手を殺すことまで正当化して、血なまぐさい戦いとなってゆく。そこへいくと、東洋の宗教は多神教である。多神教は相手の神をも認める。当然、日本も八百万の神を語るし、万物に神が宿るというアニミズムの発想もある。東洋の多神教と古来のアニミズムとを伝統とする日本という国は、テロ世界とは関係がない。平和である。こういうわけで、日本は宗教的に寛容である、というわけです。
朝日新聞が2003年冒頭の社説でそれを語ったことはすでに触れました。また、その後のメディアでの発言でも、この社説を受けて自信を持って語っているというふうなものも見られました。
例によって、産経抄の筆者もそうです。いえ、こちらは朝日新聞とは無関係に、御自分の受けた軍国教育が染みついているせいかもしれませんが、およそ思想に対して客観的な検討をした様子がなく、ただ自分の思いこみを世間に対して、メディアという大樹の力を誇りながら撒き散らしているので、その点で問題です。個人がどういう思想をもとうと自由なのですが、それを真理のごとくに権力的に述べ、しかも対抗者を根拠もなしに笑い飛ばし否定し尽くすやり方が問題だと思うのです。たとえば、ジェンダー思想を憎むあまり、まったく関係ない場面でもすべてをジェンダーのせいにするコラムを延々と書き続けています。ジェンダー運動支持者からの抗議を産経新聞も受けており、また彼らは、弱い立場からも圧制的な仕打ちをうける弱者の声を踏みにじるような史実無根の発言を大新聞が繰り返すのはやめてくれ、というふうに、思想の対立の問題としてでなく、言論の問題として抗議しているのに、まったく耳を貸そうともせず、その抗議の後にも繰り返し繰り返し、無根拠で無関係な場面でジェンダー思想を小馬鹿にし続ける発言を掲載しているという点で、およそまともな人間の心をもっていないのではないか、と私は判断しているわけです。
さて、その産経抄が、日本の宗教的寛容について最近何度も語っていることを、今回は部分的に引用することにしましょう。
いつだったか、日本のクリスチャン裁判官が「日本人は宗教的に無節操だ」とお説教を垂れたことがあった。なるほど日本人はクリスマスだ、除夜の鐘だ、初詣でだとごっちゃにやってしまう。しかしそれは無節操なのではない、宗教に寛容なのである、おおらかなのである。
ニッポン教は神さまだって間違えることがあると説く。だから人間が間違ってもその過ちを許し、みんな和気藹々(あいあい)と生きていこうと説く宗教なのである。ちゃらんぽらんこそ平和に生きるカギではないか。世界の人びとがニッポン教に改宗していくところで、目がさめた。(2004.1.3)
日本など豊葦原の瑞穂(みずほ)国といわれるほど水とつながりが深い。ところが松本説では、インドのカルカッタという地名も調べるとアシの生える土地(沼沢地)という意味だという。ヒンズー文明も日本と同じ多神教なのだった。
泥の文明はこうしてさまざまな生命をはぐくむからヤオヨロズの神々も生まれた。神々が仲よく同居するのだから、青人草である人間も宗教や信仰に対して寛容にならざるをえない。砂の文明や石の文明の地域と違って、泥の文明では血で血を洗う宗教戦争の悲惨はほとんど起きなかったのだ。
イラク戦争を“砂と石の衝突”とまではいわないが、融通無碍(むげ)の泥の文明が宗教対立の解毒剤になればいい。そんな夢みたいなことを考えてみる。まずはこういう寛容の風土に生まれた幸せをかみしめるのである。きょう十一日は「建国記念の日」。(2004.2.11)
もともと日本は宗教に寛容な風土ではある。しかし無定見に移民を増やしていくと、やがて公立学校の教室や運動場がスカーフで埋まる…。そんなことは絶対起きないという保証はない。“隅田川の水はセーヌに通じている”ことがある。(2004.2.13)
稲を刈る農業は残酷ではないが、畜殺を業とする人は残酷である。まるで、こんなふうに言っているように聞こえてなりません。意味が分かりにくいでしょうか。血を流す戦争を起こした文化は寛容でなく、テロを繰り返すようなことをしない文化は寛容である、と筆者は語っているのです。血があるかないか、が寛容かそうでないかと判断基準となっているわけです。血があるかないか、が事の是か否かを決めるというのです。
では、日本では宗教的に血生臭いことはなかったのでしょうか。
私たちは知っています。キリシタンを殺したやり方が、どんなに惨いものであったかを。京都の鴨川で何が行われたか。長崎の西坂で何があったか。雲仙でどんなことがあったか。その他、全国各地にキリシタン密告の網を張り、語るのもおぞましい拷問が繰り返されたことを、私たちは知っています。
廃仏毀釈で血が流れたか流れなかったかという議論はしませんが、庶民が信仰していた対象を、国家の命令で灰燼に帰すまねをしたことを、私たちは知っています。
戦時中、キリスト教徒に限らず、いくつかの新興宗教や共産主義者たちを弄ぶかのように殺したか、私たちは知っています。
かの筆者は、「血で血を洗う宗教戦争の悲惨はほとんど起きなかった」と言います。「それらは宗教戦争ではないぞ」「まったくとは書いていない。ほとんどと書いたのだ」と逃れるために、言葉を選んでいるのでしょう。そして、自分は根拠なしに、気に入らない相手の思想を根底から馬鹿にして抹消を図ろうとします。日本で気に入らない人々を抹殺した側の人間たちと、同じ発想、同じ思考回路でいるということに、気づいて戴けたらと思いますが、最近話題になった『バカの壁』が語るように(そしてそんなことは私たちはとうに知っていたことなのですが)、筆者本人は、決して気づくことはないのです。
公平な本も、世の中にはあります。『数学的思考の本質』(河田直樹/PHP研究所/\1,300/2004.1)というものです。この書評の中で、私はこう記しました。
個人的には、人工と自然とが対立する2項とはしないのが西洋的な伝統であるという部分の説明が気に入った。日本ではむしろそれらを対立するものとして捉える。これは、俗説とは違う結論のような観点である。俗には、日本や東洋の思想のほうが自然と調和した人間であるかのように考えられ、だから西洋風の自然を対象・客観として対置する世界観だと自然を破壊していくのだ、などと言われる。だが、真に「合理」ということを軸にして捉えるならば逆だと著者は言う。西洋においては、自然も人工も「理」のうちにある。日本では、自然のうちにそれはなく、人工のうちにのみそれはある。自然は人間に対立し克服されるべきものと西洋人は捉えている――それは、私が哲学を学んだころも、常識であった。しかしこの著者は、その常識に反旗を翻したのだ。
日本の思想が、自然と人間の融合を称える平和そのものの思想だという、一見正しいような主張が、実は逆に、日本ほど自然と人工との対立を意識して区別する文化はない、という視点を、この本は提供しています。むしろ西洋思想には、どちらにも「理」というものが同じように存在して、人間にも自然と同様の法則が通用するという発想を基に思想を展開するゆえに、自然と人間とは決して対立物として区別されているのではない、というのです。
実際、前世紀後半に環境問題が起こったときに、先頭を切ったのは、西洋文化の国々でした。たぶんどう見ても、日本人はその方面での動きでは切実さがないように捉えられていることと思います。国際社会でのつきあいとして、環境問題に参加することはあっても、その問題に対する切迫感は、薄いのです。日本にはこんなに自然がまだある、などという安心感があるせいというよりも、たぶん本来的に、自然の痛みが理解できないという意味で、そうではないかと私は理解しています。
そういう妙な意味で、日本は自然破壊に対して「寛容」なのでしょう。
寛容について、聖書はどう語っているでしょうか。
不思議なことに、旧約聖書本文には、日本語で「寛容」と訳されているものは一つもありません。旧約聖書続編には、9節あります。ローマ帝国との関わりが生まれる中で、寛容の言葉が必要な祈りが現れてきたというのでしょうか。
新約聖書には8カ所あります。
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ローマ2:4)
あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。(二コリント6:4-7)
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤ5:22-23)
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。(エフェソ4:2)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(コロサイ3:12)
(監督は)また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、
自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。(一テモテ3:3-4)
しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。(二テモテ3:10-11)
人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。(テトス3:1-2)
個人的に呼びかける意味での「寛容」に限られていますが、それは本来当時のキリスト教が、組織的な権力をもたなかったことの現れですから、これがゆえにキリスト教は組織としては寛容の気持ちをもたないのだという説明には当たりません。少なくとも新約聖書は、指導者に対して、また美徳として、寛容を説いていることにはなるでしょう。またそれは、寛容だけを持ち出して命ずるのではなく、つねに何か他の性質や事柄と並べ、あるいは比較しながら告げられています。ただ「寛容」という性格だけを強調して議論しようともちかけているわけではありません。むしろそれは自然な感情の一つであるかのような印象です。
上にも述べましたが、聖書が記された背景というものがありますから、キリスト教そのものが寛容をどうみているかという全体の説明にはならないでしょうが、あくまでもキリスト教の基準(カノン)は聖書です。聖書が語っていることは、あらゆる判断基準となりえます。寛容がそこに語られているゆえに、ローマ法王もまた、争いに対して平和の宣言をすることができるのです。たしかに、歴史上、キリスト教は非寛容な態度をとり、あるいは醜い歴史をも刻んできた事実がありますから、私たちはそういう自覚の下、反省を踏まえながら歩んでいかなければならないと考えています。キリスト教の歴史がすべて正しかったなどと言うつもりはないのです。
福音を語るときに、どうしてもそれに耳を貸さぬ者があれば、どうしろとイエスは語るか。足のちりを払え、つまり、自分はもう関係がないという態度をとるしかない、と言います。その者を無理矢理改宗しろという意味のことを考えはしません。聖書はつねに、「あなたは〜しなさい」と、極めてパーソナルに、神の言葉をもちかけます。キリスト教は、民族宗教ではなく、個人の心に個人的に語りかける性質をもちます。ならば、聖書の表現が、個人的に寛容を語るのも、当然かもしれません。
日本が宗教的に寛容であるというのは、どういう意味なのでしょうか。
仏教に関係するのでしょうか。日本仏教は、産経抄の筆者が説く、寛容そのももののインドで生まれ、寛容そのものの日本で育ったものです。
あれほど自分では問題のあるトゲばかりの発言をしておきつつ、自分についての報道のミスを糾弾しようとする石原東京都知事もまた、仏教を信奉しています。法華経に対する傾倒はただならぬものがあるそうですが、それもまた寛容の見本なのでしょうか。
法華経は戦闘的だ、という評価もあるでしょう。他の仏教なら平和で寛容なのでしょうか。
ならばどうして日本で仏教がさまざまな争いから分かれに分かれていったのでしょうか。
いや、教会だって分かれたではないか、と言われるかもしれません。プロテスタント教会が細かく分かれたのは、枝葉としての役割の違いという意味もあり、必ずしもすべてが離れたという意識はないと言われています。プロテスタント教会は、働きの違いのゆえに分かれたという理解をしており、どの教会でも「見えない教会」という意味での一つの教会に属するものだという見解はもっています。またそうでなければ、ふつうは異端のうちに数えられてしまうことになっています。
仏教は、同じブッダの知恵のもとに寺院は一つだという考えはないでしょう。それどころか、たえず相手を憎しみ呪うような動きさえまかり通ってきた歴史をもっています。今、そういういがみ合いはないでしょうが、同じ仏教だという顔さえもたないほど、赤の他人意識でいるようなことはないでしょうか。
おそらく、仏教そのものは、寛容なのです。いがみ合ってきたとすれば、それは仏教そのものがというよりも、仏教を用いる人間、この場合は日本人のことであって、仏教に寛容性がないなどと考えてはならないのだろうと思います。
それでは、日本が宗教的に寛容であるとは、八百万のことだ、という意味なのでしょうか。
その日本が、八百万の本家本元であるような祭神を祀る神道をもとに押し進めた軍国主義によって強化した日本は、寛容どころか、国家神道に危険とみた宗教を悉く弾圧しているのです。
日本が宗教的に寛容である、というときの「寛容」とは、すべてを一色に塗り染め上げようとするための方便ではないのでしょうか。
日本は宗教的に、その言葉本来の意味での「寛容」を持ち合わせてはいないのです。
仏教だって外国から取り入れたではないか、というかもしれません。日本は歴史上、多くの宗教を受容してきました。奈良の仏教もその一つです。しかしそれは、国家を平定するために、仏教を利用したという方が正確です。
国家という宗教、国家という信仰対象を崇めるために、日本はその都度、時代に合った既製宗教を、うまく利用しようとしたのではないでしょうか。
明治期には神道で国家をまとめようとしました。それが天皇集権の国家を強化するのに都合がよかったのでしょう。神社そのものがのし上がっていったのではなく、その時代の何か、誰かが、国家という見えない信仰対象に対する忠誠を誓うかのようにして、神道を選んだというふうなのかもしれません。それまであれほど天皇家も愛してきた仏教を、廃仏毀釈の嵐の中でいけにえに捧げてまでも、それを実行したのです。
そうやって、国家のために役立つと考えられた宗教に対しては、極めて寛容な態度をとりました。しかし、その国家信仰にそぐわない側に置かれた宗教に対しては、徹底的に排除することを行ったのです。
こうした裏表、二面性をもった意味での「寛容」という語を用いるのであれば、「日本は宗教的に寛容である」と言って構いませんが、それは、読む側に、裏表なしに寛容と思わせる策略であることになる以上、商品のコマーシャルのように一方的で、恣意的な表現と言わざるをえません。
人々は、「ああ、だから日本は寛容なのだ。それに対して、西洋も中東も非寛容だ。一神教なんか信じているからああなるのだ。日本は正しい。日本は平和だ」と胸をなで下ろします。
あらゆる状況が、我田引水となります。
気づかなければなりません。こうして、すべての個人は国家という偶像の中に吸収されていき、いけにえとさせられていくのです。
追伸。2月20日付産経抄は、上のような見方からすれば「国家が神である(私から見れば、国家は偶像である、の意味)」「国民は、その神に献げられるいけにえに過ぎない」と言えるような見方を、はっきりと世に宣言しています。何のために自衛隊を送り、何のために日本は寛容な国だと称え、何のために平和を実現しようと努力する人をコケにするのか、この主張は明確にしていると思います。せめてその点を、私たちは知っておく必要があるでしょう。
熊さんとご隠居さんとの落語に見立てた会話の、ほぼ最後の部分です。引用します。
――「するてえと国家は何のために戦争するんですかい」「ずばり国益だ。政治家はそこをきちんと見抜いて国益に沿った判断をせにゃならん。……」
旧約聖書の中には、イスラエルを制圧するいくつかの国が登場します。
バビロニア帝国、アッシリアなど、民を捕囚していきます。ペルシアの姿も描かれます。どの国にも、その国の神があり、イスラエルの民、あるいは指導者は、それらを拝めと強要されます。その中で、拒否して拝まなかった者のことがしばしば旧約聖書で描かれています。
私はどうしても、そうした国の姿が、日本の姿と重なって見えてきて仕方がありません。
宗教的寛容については、この程度の考察で優れた論旨が生まれることもできません。この問題は、深く広い問題です。まだまだこれからも世の動きを見張り、考え、発言していかなければならないと思っています。