ヨハネ19章の後半で、ヨハネ演出の舞台は、深い闇、沈黙の世界に陥ります。それまで雄弁に語り、あるいは対話をしてきたキリストが息を引き取るのです。それまでの対話も、ちぐはぐなところがありました。キリストは、天上からの言葉を語りますが、人間はしょせん地べたをはいずり回るもの。まともに噛み合うことはありません。
たぶん――それが噛み合うようになるためには、聖霊が必要なのです。聖霊という助け主が来てくださることにより、初めて、見えないものが見えるようになり、聞けなかった言葉が聞けるようになるのです。少なくとも、筆者ヨハネは、そう描いています。
神の沈黙の後、20章、つまり終章では場面が変わります。
週の初めの日の朝、今でいう日曜日の朝、マグダラのマリアが墓に行きます。何をしに? そこが昔から人々の想像力を駆り立てました。悪意を以て人間的にキリストを描くなら、それなりの方法があるでしょう。しかし、マリアがイエスを慕っていたのは間違いのないことです。と同時に、おそらくここでは、他の福音書にあるように、何人かの女たちが一緒に墓に行ったのでしょう。2節で「わたしたちには」と言っていますから。要するに、マグダラのマリアが福音書の中では特別な役割を果たしている人物であるということです。
マリアは見ます。墓の石が取りのけてあるのを。当時の墓は、洞窟状になっており、大きな石で入り口に蓋がしてあったということです。今でも沖縄に残るといわれるある墓の形式にどこか似ているようにも見えます。その表の石が動かされているというのですから、驚くべきことです。かといって、中を覗くということもできない気持ちのマリアは、とりあえずイエスの弟子たちのところへ走ります。
ここでは、「イエスが愛しておられた弟子」のことを、伝統的に「ヨハネ」としておきましょう。ヨハネにマリアはこう告げます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(20:2)と。これを聞いて、ペトロとヨハネが急いで確かめに行きます。
走るのは、ヨハネの方が速かった。とにかく、このヨハネという弟子は、欠点らしい欠点がありません。弟子の中でも優等生です。きわめて理知的で、霊的で、愛に満ちた弟子の姿です。しかし、墓に先に着いたこのヨハネ、中を覗いて亜麻布を見ただけで、入ることはしませんでした。亜麻布、それは遺体をくるんでいた布。奇しくもマリアは正しく、「墓から取り去られた」と正しいことを言ったのですが、ヨハネの目には亜麻布が見えるだけで、はたして遺体があるのかないのか、定かではない……一心に見つめたゆえ、どうやら空のようだ、とは思ったでしょうが、もうひとつ確信がないかもしれません。ちょっと恐れをなした、という面もあるのでしょう。
そこへ着いたペトロは、何の迷いもなく墓の中に飛び込みました。思いこんだら一途に突っ走るこの弟子らしい態度です。落ち着いてことを判断してから、という暇がありません。ペトロは見ました。遺体を毛布のようにくるんでいた亜麻布が、ぺちゃんこになっているのを。それどころか、頭に巻いてあったはずの布が、まるですうっと遺体が溶けて消えてしまったかのように、元のままの位置にまるまっているではありませんか。
このあたりの訳は、カトリックで使われていたフランシスコ会訳聖書に、詳しい解説があります。実験的なその訳が、実に生き生きとこの姿を伝えています。
それは、後に鍵がかけられた家の中にイエスがすうっと現れたことの伏線にもなっているわけです。つまり、地上の物体を透明にすりぬけるかのような移動を、すでに最初からイエスがやっているということです。もしも遺体を誰かが運び出したとしたら、亜麻布はひっくり返し、頭の覆いもどこかに吹っ飛ぶことでしょう。それが、ただ「消えた」としか言いようのない形でそこに残っているとなると、話は別です。イエスは、自ら復活されたのです。
ペトロに続いて、ヨハネも中へ入る気が起こりました。そして、「見て、信じた」とあります。これもまたエリートたる態度です。ただ、これでよいという結論を、筆者はもっているわけではありません。たまたまこれは、イエスのそばにいたという同時代の証言の一つ、しかもその中でもエリート的な存在を描いただけであって、それでもなお、この時点で、「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。人間は人間、神は神であり続けるのです。
はたしてマリアは、このときに弟子たちに従ってきたのか、あるいは少し間を置いてのことなのかははっきりとしません。ただ、ヨハネとペトロはすでに家に帰っていってしまいました。真相はどうなのか、マリアは分かりません。
墓の外に立って、泣いていました。まだマリアは、イエスの死のもつ意味から外にはみ出ていました。次に墓の中を見ました。死の意味を覗きこみました。
マリアは、いたって感覚的に物事を判断します。それは信仰として未熟であるとか程度が低いとか、そのように考えられてはなりません。マリアの個性です。それはしばしば、女性がそうあるように、もっぱら感覚的に、触れるものによって、事の次第を推し量ろうとするのです。そんなマリアに相応しい仕方で、神は助けを用意してくれました。天使です。いずれの福音書でも、ここで天使を見たのは女性です。とくにここでは、幾人かの女性の中でただ一人、マグダラのマリアだけが、イエスにすがるほどの経験をします。
天使に対しても、マリアは驚きません。「わたしの主が取り去られました」と嘆きます。「わたしの」と呼べることそのものが、すばらしい信仰です。ですからイエスは、マリアに姿を現してくださいました。ただ、マリアはまだそれがイエスだとは分かりません。マリアは、「あの方」を探しているのだと繰り返します。
このようなマリアに相応しい知らせ方は、やはり感覚でした。「マリア」と呼んだその声の響きで、マリアも気づきました。羊は、牧者の声を聞き分けます。喜びのあまり、マリアはイエスにすがりつこうとします。が、イエスはそれを諫められました。イエスは、手でじかに触ってすがりつく対象ではないのです。目で見える、手で触れる範囲でのみ奇蹟を起こすようなお方では、もはやなくなっていくという宣言であるのかもしれません。
マリアは、「わたしは主を見ました」と弟子たちのところへ戻ります。マリアは、マリアに相応しい形で、神の証言者になったのです。
同じ日曜日の夕刻のことです。弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけ、ぶるぶると震えていました。今度は自分たちが襲われるかもしれない。あの裁判の席に引っ張り出されるかもしれない。イエスの弟子たちであるというだけでもその恐れが十分あるのですが、もし遺体が持ち去られたということが知れたら、真っ先に疑われるのは弟子たちです。妙な噂を広めるために、遺体を盗み出したという嫌疑をかけられたら……。
「平安あれ」
弟子たちの真ん中に、イエスが立っていました。こっそり現れたのではなく、集まった者たちの、まさに真ん中に。かつてバプテスマのヨハネが「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(ヨハネ1:26)と証言しましたが、そのことが最後の舞台で、美しく実現したともいえます。
イエスは、自らその手と脇腹の傷をお見せになったようです。
そして、弟子たちは、それを見て、喜んだ……どんな喜びだったのでしょう、そんなに急に喜ぶことができるものでしょうか。とにかく、悲しみや不安が一度吹き飛んだのは事実です。
続いて、「彼らに息を吹きかけて」から、「聖霊を受けなさい」と言われました。使徒言行録にある聖霊降臨とはまた違う形で、イエスは弟子たちに聖霊を示します。たぶん、それは完全な形で行われたのではなかったのです。この一週間後、弟子たちは再びびくびく恐れて鍵をかけて集まっているからです。しかし、ヨハネ伝は、イエスの独白も含みつつ、延々と聖霊という助け主を寄越すこと、その聖霊がどういう働きをするかということを、語り述べてきました。それを蔑ろにしたまま、福音書を閉じるわけにはゆきません。聖霊はたしかにこれから後に与える、という含みを十分もたせて終わらなければならないのです。そのためにヨハネは、すでに記されてある使徒言行録の記事を否定することがないように、それでいて聖霊の吹きかけを十分な形で予感させるべく、このような登場のさせ方をしたのかもしれません。
このとき、トマスはたまたま不在でした。
このトマスは、ヨハネ伝の中でも重要なキャラクターを演じています。
死んだラザロのところへ行こうとイエスに誘われて、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言いました。
自分がどこへ行くのか、その道を弟子たちが知っているとイエスが告げたとき、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(ヨハネ14:5)と質問しています。
トマスは、即物的で、言葉の意味の深いところを探ろうとはしません。額面通りに受け取って、判断しようとします。目に見えるところですべてを決めるという性質が、すでにこのように準備されていたのです。
ですから、自分の手で直に、その現れた者の掌に釘の痕があるかどうか、その脇腹に槍の痕があるかどうか触ってみなければ、信じることができない、と言いました。
チャンスは、次の日曜日に起こりました。この曜日関係から、クリスチャンがユダヤの安息日(神が天地創造を成し遂げて休まれた日)でなく、日曜日(神が天地創造を始めた日)を主の日として礼拝するようになったことが説明されます。あるいは逆に、主の日がすでに定まっていたのを根拠づけるためにヨハネが整理した、ともいえるでしょう。
弟子たちは、また集まっていました。戸にはみな鍵がかけてあった、とまた記してあります。やはりまだ恐れていたのです。そして再び、イエスが真ん中に立ちました。
「平安あれ」
ああ、この繰り返し。舞台芸術らしい配慮。ヨハネ伝は、最後の舞台を、印象的に飾ろうとしています。
トマスに、さあ触ってごらんとイエス自ら言葉をかけます。さあ、と迫る様子が目に見えるようです。トマスは、どうしたでしょうか。たぶん、触ってはみなかったでしょう。普通、手を伸ばすことなどできませんよね。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)
トマスは「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と答えます。参りました、というところでしょうか。「神」と呼んでいるところが微妙です。エホバの証人の人が、耳をふさぎたくなるか、真っ向から否定しようと肩に力を入れて理屈を語り始めようとする箇所です。ここではあまりこだわらないでいきましょう。トマスでさえ「神」と認めたところに、唯物的な生活をする現代人は意味を考えたいものです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)
トマスは一応の合格点はもらいましたけれども、まだ条件がつけられています。幸いなことに、トマスは直にイエスを見ることができました。だから、なんとか信じることができたというわけです。しかし、ヨハネは後世へのメッセージとして、渾身の力を振り絞って、この最後のイエスのせりふを用意していました。
これは、トマスに告げられた言葉です。しかし、同時に、観客、いえ、後世に生きる私たちに宛てて語られた言葉に違いありません。イエスの復活体を見ることもない後世の人間たち、この福音書の読者よ、それでも信じる者こそが、幸いなのである……。
マリア、ヨハネ、ペトロ、トマス。四人の、それぞれに味のある、そして人間を分類するかのようなキャラクターたちが演じる最終章。しかし、その舞台に登場することのできなかったすべての観客へ向けても、演出家はメッセージを確実に送りつけていました。大団円の舞台において、「見ないのに信じる人は、幸いである」というせりふで、幕を引こうとするのです。
最後は、エピローグとして、ここに記されなかったわざも数限りなくあるのだとにおわせ、筆者のだめ押しとして、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの何より命を受けるためである」(ヨハネ20:31)と記しています。これは、蛇足的な説明かもしれませんが、よりはっきりと、誤解されないために敢えて結んだのかもしれませんし、舞台の結びとして、ト書きのように綴られただけなのかもしれません。
21章は、また別格のものとして扱いましょう。いわば、番外編に過ぎません。