舞台演劇としてのヨハネ伝

2002年5月

 水曜日朝に、教会で、ヨハネによる福音書を続けて学んでいます。

 自分一人では読んでも気がつかなかったことが、牧師と共に読んでいると、見えてくるのが不思議です。牧師に教えられることもありますが、ふと気づかされるということが、あるものです。

 正直言って、このヨハネによる福音書を読み始めたとき、肩の荷が重いような気がしました。象徴的な表現が多くて、意味が分かりにくいのです。たしかに、教義上、こう読むべきだ、などという知識は持ち合わせています。また、信仰する以上、言おうとしていることの結論めいたものは、それなりに分かるつもりです。場合によっては、神学的な解釈などと言われても、どこぞの学者はこう言っている、とでも言っておけばよいのです。

 しかし、この祈祷会には、まだ聖書を通読したことのないような人、まだ教会に来て間もない人、視覚障害者の方などが同席します。そこで、素朴な疑問が出されたとき、どう説明するのか、というのが、たかぱんの、そして牧師のその場での大切な仕事となります。

 難しい言葉をオウム返しに言うのは、むしろ易しい。易しい言葉で予備知識のない人に理解してもらうように言うのがいちばん難しい。職業柄、そういうことは分かっています。まさにこの場合、そうなのです。

 いったい、聖書の予備知識のない人に、ヨハネ福音書の一章分だけを一時間かけて読むとき、どのように説明したらよいのでしょう。実際、自分自身、それほどに理解できてはいないのだということを、思い知らされるだけです。

 案の定、自分でもどういう意味なのか、福音書の中のイエスの言葉の細かい部分は、まるで分からない状態でスタートしました。

パンダ

 冒頭の「初めに言があった」からの、神秘的な教義のような部分から、いきなり洗礼者ヨハネが現れ、どこか大げさな対応をします。そして奇妙な方法で弟子を集めた後、2章でカナでの婚礼で水をぶどう酒に変えました。記者ヨハネは、これを「最初のしるし」と記録しています。それから過越祭賑わう都に現れると、いきなり商人たちに暴力を働くイエスを描き、早くもイエスの死と復活についてヨハネは記します。この都で多くの信者を得ましたが、イエスは人間を信用することはなかったと説明されています。

 3章になると、ファリサイ派のニコデモが、噛み合わない会話をして、イエスの前で三枚目を演じます。このとき、イエスのせりふとも、記者ヨハネの言葉ともとれるような部分で、有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉が刻まれます。再び洗礼者ヨハネが登場すると、その口を通して、イエスが神の子であると証言させます。

 4章では、ふしだらなサマリアの女の素性を言い当てたイエスが、サマリアの人々に信者を得る物語が描かれます。ドラマチックな展開の後、再びあのカナに戻り、また奇蹟を起こして瀕死の子どもを治します。これを記者ヨハネは、「二回目のしるし」と記録しています。

 5章もエルサレムでの祭が舞台です。イエスは神を自分の父と呼び、ここからすでに命を狙われるようになります。同時に、滔々と、父と子の関係や永遠の命を与える約束について説明します。

 6章は、故郷近くのガリラヤ湖に設定を移します。時期は過越祭近く。過越祭とは、ユダヤ人の出エジプトを記念する祭で、モーセの一団がエジプトを脱出するとき、小羊の血を入り口に塗った家だけが神の罰を受けずに済み、また、時間がないこともあって、種入れぬパンを食べました。場所はガリラヤですが、イエスはパンの奇蹟を起こして、自分こそ命のパンであること、それゆえ自分の肉を食べ、血を飲むことによって、永遠の命を得ることができる、と、これまた滔々と語ります。しかし、人間が理解するにはあまりに唐突なその筋書きに戸惑い、多くの人々はイエスのもとを離れて行きます。

 やがて仮庵祭が近づいたとき、都の神殿で、安息日についてイエスは語ります。ユダヤ人たちは、いつかイスラエルを救うという伝説のメシアがこのイエスなのかどうか議論します。しかし権力者たちは反発し、イエスを亡き者にしようと企みます。ただし、イエスにとって、まだこれは「時」ではありませんでした。

 8章は、後世の挿入と目される、有名な姦通の女のエピソードで始まりますが、要するにこの章もイエスの説教であり、信じる者たちへ、天上の理論を語ります。

 9章は、生まれつきの盲人を見えるようにし、ファリサイ派に決定的にケンカをふっかけます。

 10章は、イエスがユダヤ人の牧者であることを、羊のたとえを使って説明します。時は冬、神殿奉献記念祭があり、メシアかどうかはっきりさせよと焦るユダヤ人たちに対して、自分が神の子であると語りますが、それはユダヤ人にとっては神を冒涜する言葉にほかならず、命を狙われるようになります。

 11章はラザロの復活の物語。もちろん、イエスが後に復活することを暗示するに十分な脚色です。間もなく過越祭。12章に入り、ユダの裏切りの伏線が置かれ、イエスはエルサレムの人々に熱烈な歓迎を受け、ギリシア人、つまり外国人にも福音が伝えられます。イエスは「時」が来たことを告げます。

 13章で弟子たちの足を洗い、ユダが場を去り、それから長い長い告別の説教が始まります。17章の祈りまで、イエスがひたすら喋るばかりです。

 以下、18章からの逮捕と尋問、死刑判決から十字架と死、そして復活については、他の福音書と歩調を合わせながらも、兵士たちが倒れたり、罪状書きが三カ国語で掲げられたり、わき腹から血と水とが流れたりするように、他にはない演出が施されています。また、復活後の顕現も、ルカによる福音書のエマオへの道を除けば、ヨハネほどドラマチックに描いてある福音書はありません。20章で本来終わっていたという説もありますが、その20章と21章の終わりには、エピローグ的に、いかにも幕を閉じるかのように、まとめが記されています。

パンダ

 もうお分かりだと思います。たかぱんは、意識して、ヨハネによる福音書を概観するのに、演劇的な言葉を使ってきました。ヨハネによる福音書は、演劇として記されている、とたかぱんは思いました。

 他の福音書が、記録的に、あるいは説明的に語られているとすれば、ヨハネによる福音書の描き方は、まったく演劇の舞台を演出するかのようです。脚本として読むと、それぞれの場面が生き生きと伝わってきます。どうしてイエスの長いせりふが随所に見られるのか。オペラやミュージカルを考えてください。主人公が、自分の心情を伝えるのに、長い歌を披露するではありませんか。戦いを背後に自分だけが両手を広げて、延々と戦いはやめようなどと歌い続けるではありませんか。そうした場面設定も、この福音書では明確です。多くは、ユダヤの祭を描いています。また、異端の地サマリアや、故郷ガリラヤも交えて、それぞれへの宣教の役割を説明します。

 また、全編を通じて感じるのは、イエスの言葉が人間の言葉とすれちがっていることです。まるで、人間の領域と神の領域が天と地とで完全に別れているのに合わせるかのように、イエスの言葉は同じ状況においても人間の頭の上のほうを滑り流れ、人間はその意味を解せず、地上で理解できる範囲で会話をしています。それで、とんちんかんな、ちぐはぐな会話があちこちにちりばめられています。特に最初のほうにそれが目立ち、後半はいよいよ人間の思惑と分離してしまいついにそれが十字架へと決定的に流れていくせいもあってか、イエスは専らひとりで神の言葉を語り続けるだけとなり、もはや対話が生まれなくなります。もはや弟子たちとも、交流ある対話が、他の福音書と比べると激減し、いえおそろくゼロであり、ピラトもまた「真理とは何か」と完全に食い違った会話しか残していません。

 読者は、客席で歯がゆい思いをします。ときにイエスに身を置き、ときに弟子たちに、あるいは反対者たちに身を置きながら、この舞台を見つめます。そして自分はこのイエスに従うぞ、との決心を起こさせ、荘厳な舞台の幕は閉じられるのです。

 あたかも、この後の物語は、観客それぞれが演じて描いていくかのように……。



Takapan
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