癒し

2005年10月


 いつから言われるようになったのか、よく分かりません。「癒し」

 そもそも漢語に付く「系」が、和語に付いて「癒し系」だなどと口にされるようになった頃から、今なお、癒しこそ必要なものという空気が覆っているかのようです。

 アメリカでも、ヒーリングという名で人々が癒しの動きに群がっており、あるいは鬱からの癒しという問題は、クリスチャンの間でも、もしかすると下手をすればクリスチャンなるがゆえに、大きなものとなっています。

 教会に、癒しを求めてくる人がいることは、確かです。かくいう私自身、そうに違いなかったのですから。

 しかし、安易に「癒し」という言葉が使われ、あるいは利用されているように見えることがあります。何でもかんでも「癒し」という言葉で説明されようとするような。

 最近では、若者が、癒しを求めている、とまで言う人がいます。当の若者さえもが。

 

 ここでは、肉体的な癒しのことには触れず、専ら心の癒しということについて、考えてみたいと思います。

 はたして、癒しというものが、本当にそれほど必要とされなければならないのでしょうか。

 まず、こんなことから問い始めてみようと思います。

 

 真っ先に浮かんでくる反論は、こうしたものです。

 何の不自由もなく育てられておきながら、癒しを求めるというのは、単に甘えているだけではないのか。ちょっとしたことですぐに傷つき、癒されたいなどと逃げているのは、本人の精神が弱いだけのことではないのか。

 もしくは、子どもたちをそのように育てなかった、親が糾弾されなければならないかもしれない。教育にも責任がある……。

 

 他方、たしかに傷付けられてどうしようもない立場の人がいることもまた事実です。

 もう堪えられないような中に置かれ、逃げられず、周りの無関心さによってさらに追い込まれ、見かけ以上にもう救いようのない事態にはまりこんでしまうような人。

 それは行政が助けるべきだ、というのも正論ですが、行政は基本的に何もしてくれない、と考えたほうが、正解に近いだろうと思います。人々が支え合う関係が失われたとしたら、暴力や貧困に喘ぎ息も絶え絶えといった人が、癒されることを願うことを、誰が妨げることができるでしょうか。

 そうした人のことを知ったら、ほうっておけない。私たちは、そう言えるものかどうか、自分の胸に問い直してみなければなりません。

 

 癒すなどという甘っちょろい言葉では語れないような、生き死にの極みを綱渡りしているような人が、今まさにこのときにも、日本に沢山いることでしょう。

 そこへは、「癒し」という言葉が役立つことがない、というのも皮肉なものです。

 どこかまだ、ぎりぎりのところよりはずっと内側にいる人だけが、「癒し」を求めているのかもしれません。

 

 と思ったら、甘えているとか、精神が弱いとか言われている若者が、一見のほほんとしているかのように見えていながら、一瞬にして「死」という結論を選び取っていくことがあるのも、また事実です。

 一人ではできないから、誰かを巻き添えにしていくのは、心中に見られる日本人の中にある何かを物語っているのかもしれませんが、集団自殺がそのようにして起こります。もし集団でなくても、恵まれた環境にあるかのように思われた若者が、死を選ぶという話を耳にすることも、珍しくありません。

 

 このようにして、私の思いは、どこへと定まることもなく、「癒し」とはいったい何なのだろうかというところを、ぐるぐる回っているばかりです。

 なぜ、わざわざ「癒し」などという言葉を、人々は求めていると口にするのでしょうか。若者たちまでもが。

 それは本当に、たんなる甘えなのでしょうか。

 

 中学生たちに、世界の飢餓や貧困の状況を語ったら、実に真剣にそれを受け止めてくれたという話がありました。

 世界の状況を熱心に調べ、募金活動に立ち、物資を集め、キルトを縫った、などと。

 打てば響くものを感じた、といいます。

 

 その中学生たちは、癒される必要などない、強い中学生たちばかりだったのでしょうか。悩みもなく、ただエネルギー溢れる青春の時期の勢いで、そんなことをしたのでしょうか。助けられる必要もないような若者が、助けを必要としている他地域の子どもたちのために何かを「してやった」ということなのでしょうか。

 それとも、自分の中の痛みや暗い部分を、何かそうした動きにつなげることで、自ら立ち上がる道を見出していこうとしていたのでしょうか。

 もしかすると、それぞれが抱えていた暗い心を、するに価値ある事柄に出会えたことで、そうして活動することで、乗り越える力を与えられつつあるというのでしょうか。

 

 誰か他の人のために何かをするとき――人は生き生きとなることができるものなのかもしれません。

 ただ与えられようとして「癒し」を求めているだけでは、いつまでも癒しは実現せず、自ら何かを与えようとする気持ちが起こったとき、癒しが成されていく、というようなことが、実際あるものです。

 その頭を、からだを、誰か何かのために使うとき。

 

 若者に「癒し」が必要であるとするなら、大人がするべきことは、どこが痛いのかと気を遣って世話をしてやることではないような気がします。それよりも、時に目標を失い、何をすればよいのか分からず、あるいはためらい、あるいは見失っている、それともまた目を塞がれている若者に対して、こんなことができるのだ、こうしたことを誰かのために、してもよいのだ、と示すこと、あるいはせめて、世界にはこんなに問題があるのだ、君たちの誰かがこれに対して何かをすることはできないか、と問いかけるかのように、情報を提供すること、そうしたことをするのが、大人の義務ではないのか、という気がするのです。

 

 とはいえ、私自身、「癒し」の問題について、明確な結論ができているわけではありません。癒すのは究極的には神の領域であるに違いありません。人間にそれの完全性は求めることができないでしょう。

 イエスは、癒しを求める人と共に、その苦しみを背負って悩んでくださっているのだ、というメッセージがなければ、真に癒されることは、なかろうかと考えます。

 それでも、いきなりそんな答えを掲げることはまた、誰の癒しにもつながらない可能性がある、とも思うのです。教義的な救いや癒しの提供をすることではなくて、大人自らが癒しの経験をしっかりとして、毎日を過ごしていくのでなければ、若者たちの眼差しも、出口や光を見いだせないのではないか、と思うのです。


パンダ

ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
       (イザヤ40:27-31,新共同訳聖書―日本聖書協会)



Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります