健康診断において、大腸ガンの検査で引っかかってしまいました。
とにかく、精密検査をしなければならない、という絶対的な要求が突きつけられました。無視すると、来年から健康診断を受けさせてもらえなく虞があります。
いやだなぁ。まだ深刻さのない私です。
家族が心配する中、検査を急がなければなりません。検査の予約をとりました。
検査というのは、薄々どんなものか分かっていただけに、ますます「いやだなぁ」と思います。もしこれが、本当に的確に癌や腫瘍が発見されて、手術などの事態になるとすれば、検査万歳ということになるはずなのに、そんな危険は省みず、いやだなぁでよいのでしょうか。
腸を空にするために、人口的に下痢状態にしなければなりません。前夜から下剤を呑み、当日は朝から水1.5リットルに薬品を溶かしてこれを呑み、腸を空にしておけという準備を言い渡されました。
就寝前の下剤はまだましですが、朝のこの1.5リットルは拷問でした。まず、不味い。薬とはいえ、量を呑ませるのであれば、もう少しなんとかできないものでしょうか。それから、その量が多い。2時間で飲めということでしたが、飲めるものではありません。嘔気止めを先に呑んでいなかったら、きっと吐いていたことでしょう。
幸い、1リットル余りのところで、腸が空になったのが分かりました。これでストップしてよいことになっています。
午後、自ら車を運転して出かけます。もっと悲惨な状況を予想していましたので、行きは楽々でした。
予約の時刻ちょうどに着きました。えらく道が混んでいたのです。
すぐに名前を呼ばれて中へ導かれました。浣腸で腸の状態を調べられます。
なにせ初めてのことですから、右も左も分かりません。殆ど実験動物のような感覚で、ルートに乗るのが精一杯です。
その後、いよいよ検査です。医師の手が空くまでしばらく待ちました。朝からの絶食ゆえに脱水にならぬよう、点滴がなされます。はて、私はこれまで、点滴などしたことがあっただろうか。記憶にありません。
ナースは、どこに針を刺すか慎重でしたが、いざ場所を決めると、一発で決めました。痛みもありません。開業医のナースは、何でもこなさなければならないので、技術的にはなかなかのものなのだそうです。手がひどく荒れているのも、その仕事の大変さを物語っています。
家にナースがいますので、そのあたりの事情も日頃からよく聞いていました。大変な仕事、お疲れさまです。そして、ありがとうございます。
いよいよ、検査です。大腸カメラを差し入れられました。入口は、まだよいのです。直腸から折れるとき、カメラが鋭角に曲がります。まず、ここで痛みが。そこから下行結腸を上部に昇り、再び角を折れると、横行結腸を進みます。ここの切り口の形は三角形をしています。上行結腸の角までは3分。順調です。
が、妙に感じるのです。体内を、横切るものの存在を。内臓に神経はないのですが、どこかの神経に影響しているのでしょうか、確かに感じます。痛いというよりは、気持ち悪い感覚。なにしろ、初めてですので。そして、もしかすると、直腸の角に絶えず当たる辺りが痛みの原因なのかもしれません。もちろん、それらはいずれも鈍痛ではありますが。
大した痛みではないのでしょうが、こちらはなにぶん初めての体験。この痛みの基準というのが分からないので、「痛いときには言ってください」と言われても、どの程度を「痛い」と言ってよいのかどうか、分かりません。とりあえず、あまり我慢しすぎないように言うようにはしていました。
盲腸に至までは、最初から7分かかりました。とにかく大腸はすべて撮影されていくことができました。抜きながらの撮影となります。もそもそごそごそと腹部内部を何かがうごめいています。たしかに中に何かがあるという、不思議な感覚。時折、何がどうなっているか分からない痛み。
最後に肛門撮影のためにカメラを反転させるときの、また痛さ。キリキリと痛むことはないのですが、なんとも不思議な感覚がしていました。
口では、十字架の愛などと簡単に言います。人がその友のために命を捨てる、などと言います。十字架の購いに感謝、などと笑って言います。
少し信仰が深まると、その痛みがどれほどのものであったのか、恐ろしくさえ感じるようになります。リアリティの想像力をもてる人は、考えただけで失神しそうになります。なんという惨い刑なのだろう、と。
それでも、その感覚は、自分に実際にもたらされたわけではありませんので、どこかまだ他人事でありうるものでした。もちろん、信仰というのは、そのある意味他人事の感覚を、可能な限り自分の痛みとして知ることをよしとし、また実際に体験してみるという人もいるかと思います。
そんな十字架の苦しみや痛みに比べれば、このくらいの痛みがなんだ。
私は自分に言い聞かせました。まさに、祈りの中で、検査が進んでいったことになります。
検査終了後、腹の中に違和感はありました。まだつんつんとやられているかのように、内臓が反応しているのです。腸蠕動の増大で、ぐるぐるおかしな動きをしているのかもしれません。
帰りの車の運転中、時折痛みが走りました。厄介でした。腸がぴくぴく動いている感じです。刺激を受けてということなのでしょうが、腸蠕動は、静まるまで待つしか基本的にありません。
とにかく、十字架の痛みを味わう主を見上げるような思いで、私はそれをこらえていました。
しかし、世の病院では、毎日様々な検査が続けられています。治療としても、継続的に行う透析などは本当に苦しいという話を聞いています。毎日、これ以上の痛みに耐えて治療を受けている人が、何万人何十万人といるわけです。
その人々の「痛み」を、自分はどれほど重く受け止めていただろうか、と思わされました。「たいへんでしょう」「つらかったでしょう」と口では言ってみても、言う側は痛くも痒くもないのです。ナースに向かって「あんたに何が分かる」とぶつけた患者がいたとき何も返す言葉がないという医療従事者の言葉のような誠実さも、そこには含まれないほどの、いかにも形式的な慰めの言葉。その言葉をかけることによって、自分が善人であるかのように振る舞う、悪辣な計算。
こうしてわずかな痛みでヒーヒー言う自分がここにいたのに、これ以上の痛みが毎日続いている病気の方々、しかも動けず、希望も抱けないような状態の中で、神を見上げている方々の思いなど、全く分かってはいなかったし、分かろうともしていなかった、ということが、今更のようにひしひしと押し寄せてきました。
聖書の、イエス・キリストの歩みはどうだったでしょうか。この、人の痛みということを、これほどに受け止めたという実例が、かつてあったでしょうか。
最近のTIME誌に、マザー・テレサのことが特集されていて、そこには、彼女が信仰できないという苦悩が描かれていたという話を聞きました。人間の中で最もキリストのように歩んだと見なされている人でさえそうなのです。人間には、イエスのような歩みは、できないものです。
福音書を読めば読むほど、その偉大さが思い知らされます。それでいて、まだまだその全貌は分からない、というのが正直なところです。
ついには、十字架で、すべての人の痛みと罪を受け止めるに至りました。この方しか、すべての痛みを分かち担ってはくださいません。できません。
私たちが、まるでキリストのようになれるかのように、あるいは、キリストにしかできないことをしなければならないなどというように、勧めるメッセージが世にはありますが、それはしばしば大変危険なものとなります。
まだまだ私はキリストのようにはできませんが……などと、キリストをただの偉人のように語る人もいました。敢えて言いますが、それはクリスチャンでも何でもありません。ただの勘違いしている自尊の塊に過ぎません。
キリストは今日も、あなたのために祈っています。
神に作られた陶器としての人間に過ぎない私たちです。あなたにも大きな罪の穴があり、いくら神から恵みが注がれても、そこからすべてが漏れてしまうような、どうしようもない穴があります。
しかし、その穴を、キリストは懸命に押さえて、恵みが漏れないようにしてくださっています。「この者はこんなに穴だらけ、欠けだらけですが、わたしがこの者が審かれないように、このようにその漏れを塞いでおりますから!」と、神に向かって叫んでいてくださるのです。
そのキリストの手は、まだ傷癒えぬ状態です。十字架に釘打たれた傷は、よみがえってもなお、そこにまだしっかりと遺っているのです。
「何にも悪いものはないよ」
医師が私に、写真と図解をもとに、説明をしてくれました。
キリストの言葉も、きっとそうなのでしょう。「残っている罪はないよ」