言えない時、言える時

2006年7月


 昭和天皇が、自分の心だとして、靖国神社に合祀された人の一部に対して不快感を示した側近のメモが明らかにされました。

 これに対する政治的な立場などについて、ここでとやかく言うつもりはありません。

 注目したいのは、この後、様々な人が、発言していることです。戦犯については分祀をすべきだ、というふうな発言は、いわゆる靖国官僚を多く出している党内では、強く主張しにくい立場でした。

 いや、主張はしていた、と言うべきかもしれません。それを受けとめる国民の気持ちが、かの天皇の報道により、変わってきたというのが本当なのかもしれません。

 それにしても、日本遺族会会長までが、分祀に傾いてきたとなると、やはり天皇の心についての報道は、相当なインパクトのあることだったと言えるでしょう。

 

 戦犯は分祀したほうがいいのでは、という考えなど全くなかったのに、この報道によって、急に意見が反転したのでしょうか。まるで「転向」とでも呼んだほうがよいような、180度の転換なのでしょうか。

 それとも、どこかに分祀もありかな、という気持ちがあったのに、それが言えないできたのでしょうか。

 

 日本語には、「本心」という言葉があります。これが、翻訳しにくいものだと聞いたことがあります。細やかなニュアンスがその都度違うということもありましょうが、心にある本当のことは、態度に示されたものとは別にある、という分裂が平然と存在することが、理解できない、という文化もあることだろうと思います。

 心の中には、自分の気持ちというものがある。でも、周りの空気からして、それを表立たせることはできない。こういう状況は、私たち日本人の日々の生活の中で、随所に見られるものでしょう。

 ですから、ひとたび、その押し隠していた思いが、発言してもよい状況――誰かが言うようになり、いわばメジャーになった――において、こぼれだしてくる、ということがあるのです。

 

 だって、会議でも、誰かがもし新しい意見を言い始めたら、初めてそれに同意することが表明される声が大きくなっていく、などということがありますもの。誰も言わないふうであれば、多くの人の心に隠されたままになっていて、会議の後で、こっそり、そうじゃない、などと漏らすばかりで……。

 だから、いくら多くの人が心に思い描いていても、会議の空気で決まっているものに逆らえない、みたいなことが、起こるわけです。

 

 心では思っていても、なかなか口に出して言えない、それが普通だと思います。

 自分一人だけ、逆らうようなことを言って目立つわけにはゆかない、ということもあります。

 でも、どうしても言わなければ、という思いに駆られることもあります。

 

 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。(ルカ12:11-12)

 

 イエスの言葉は、その駆られる思いというものの存在を、明らかにしています。心配することはなく、ただ心にある「本心」が口から出ていく、それを口から出すことができるのだ、と教えてくれています。

 

 ともすれば、キリスト者は、周りと違うことを言うことがあり、それが生意気に聞こえれば、「預言者気取りだ」と指をさされます。

 その預言者自身、周りの誰もが口をつぐんでいた中で、自分はこれを言わなければならない、との思いが強く、自分に正直に何かを叫んだ、という面もあるでしょう。

 誰もが言えない時に、言う。これは、説明するほど簡単なことではありません。

 言える時がきたとき、「実は私もそう思っていた」と言うのは、「みんなでそう言えばこわくない」というところなのでしょうが、時に狡く、そして悪質なものとなります。

 

 戦争が終わったとき、「実は日本が負けると思っていた」と大人たちはこぼしました。それを戦時中に言えば、自分の命が危ないからです。でも、戦争のとき、その大人たちの言葉を聞いていた子どもたちは、それをすっかり信じました。それで、皇民化教育は実に効果的に進み、まるで洗脳されたかのように、子どもたちは次々と、「素直に」自らの命を捧げていきました。

 そのことをまた、美しい話だと涙して、戦争で亡くなった人々のことを私は忘れない、などと言う権力者がいます。

 自分で殺した相手のことを、「つらかっただろうねえ」などと気遣い、自らを人間味あふれる者のようにアピールする、殺人犯が、いるでしょうか。

 自分に責任がない、と思いこんでいることは、どんなに恐ろしいことなのか、どんなに厚かましく、あらゆる面で危険であるのか、改めて怒りを覚えます。

 

 光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。(ヨハネ12:35)

 

 まだ、今は、発言する自由がある時代です。今は、「言える時」です。やがて「言えない時」が来るかもしれず、でも、そのときにも、「言える」自由を、イエスはくださいます。

 キリスト者は、預言者としての役割も、必ずや背負っていることと理解します。


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