異質なものへの想像力

2003年1月

 2002年から2003年にかけて、朝鮮民主主義人民共和国(その国からみれば不本意かもしれませんが、長いので以降「北朝鮮」と略します)の映像が、ワイドショーでさかんに紹介されています。その大部分は、「北朝鮮はこんなに異常だ」「こうして洗脳されてゆく」というメッセージをこめて発信しているように思われてなりません。

 リーダーをまるで神のようにみたて、命をかけてそのために尽くす……それがいかに馬鹿げたことであるか、危険なことであるか、それをほとんど揶揄するかのように紹介しているように見受けられます。でなければ、たんに気味悪がっているかのようです。

 正体の知れないものを気持ち悪いと思うことは、本能的にありうることです。それは、あの「オウム真理教」についてもそうでした。いえ、今もなおそうでしょう。この教団に対する報道姿勢もまた、北朝鮮に対するそれと類似しているように思えて仕方がありません。また、最近マスコミはなぜか取り上げませんが、統一協会に対しても、そのような姿勢でよく報道されていました。

「奴らは何考えているか分からん。普通じゃない」という思いで。


パンダ

 ところが、世間には、そうした異端的グループにかつて属していた人、そこから元の世間に戻ってきた人というのがいます。彼らは、たいていこのように語ります。

「彼らもまた犠牲者なんです。彼らがああするのは分かります」

 もちろん、自分が経験しているから同情するみたいな面もあるでしょう。ですがここで強調したいのは、そうした対立するグループの立場からの視点を想像してみる必要性というものです。

 北朝鮮から見れば、自由主義の国々は、堕落した退廃文明なのでしょう。オウム真理教から見れば、その他の人々は、俗世間で目的もなく真理も分からずさまよっている民衆なのかもしれません。統一協会から見れば、やはり堕落した民であり、どうしてもそこから救われなければならない者たち、あるいはサタンの部下としてそこからいくらでも金を搾り取っても構わない存在であるのかもしれません。

 異常かどうかなど、相対的なものでしかなく、何もわれわれ一般の日本人が正義であるという前提などありはしないのです。それを確認しておかなければなりません。


パンダ

 聖書も、さまざまな異教の人々との葛藤にあふれています。

 旧約聖書では、まずはまったく別の神を仰ぐ民族との対立です。

 エジプトでは、そもそもさまざまな神が成立していたため(一神教の時代もわずかにあったが)、ヘブライ人の神を特別な異端と感じていたかどうかは分からず、多くの神々の中の一つという具合に見られていた可能性があります。エジプトの王は、その力を認めず災害を受け続け、最後には初子を殺されたことが決定的となって、モーセを頭とするヘブライ民族をエジプトから脱出させることに同意した……そうした経緯が、「出エジプト記」に記されています。

 そのモーセの跡を継いだヨシュアが指導者となって、ヘブライ人たちは、約束の地カナンに侵入することになりました。それは侵略でもあるということで、いまなおパレスチナ問題の理由・背景となっている出来事です。このとき、カナンには、おおらかな豊穣の神々を信じる部族が複数生活していました。バアルに代表される神々は、大地の実りを、戦いの勝利を司っていました。それらは人の心に適うものだったため、ヘブライ人、つまりイスラエル人たちの中にも、バアルなどの神々に従う者が続出したことが明らかにうかがえます。ソロモン以後国が二つに分裂した際、北イスラエル王国はそうした地場の神々のための祭壇を堂々と設置して、南ユダ王国に対抗したことも記録されています。

 この傾向は、王国がバビロニア帝国の力で滅亡するに至るまで続きました。そして、国の破滅を経て初めて、この不幸が、イスラエルの神である主を捨てて他の神々に従ったせいである、との自覚をもち、以後ユダヤ教が正式に成立していくことになりました。

 イスラエル民族にとり、異教の神々は、気味悪がるという程度のものでなく、自分の民族のアイデンティティを保つためにはっきりと敵対視しなければならない性質のものでした。自らの結束を高めるために、あのような偶像に従ってはならない、という反面教師でした。自国の中から完全に駆逐しなければ、少しでも残しておくといつか全体を食いちぎる虫のような存在だったのかもしれません。


パンダ

 新約聖書の時代には、状況が変わります。いわば、イエスをキリストとする側そのものが、ユダヤ教の一派、さらに言えば異端と見なされたのです。客観的に見るとそうでしょう。イエスをメシア、すなわちキリストと仰ぎ、ユダヤ民族の救いがここに成就したと宣言する姿は、大勢から見ればやはり異端に違いありません。

 それゆえ民族から異端視され、追われる立場にありました。しかし、二十年・三十年とたつうちに、パウロなど海外へ宣教した人々の力で、ユダヤの外の大きな勢力の中で力を得て、ついにローマ帝国という巨大な権力を味方につけることができるに至り、逆にキリスト教の側が上位に立つ結果となりました。

 このキリスト教の成り行きをおさえた新約聖書においては、気味悪い存在とはどういうものになるのでしょうか。逆に自分たちこそが君悪がられていたわけですから。

 しばしば新約聖書は、福音の純粋性を守ること、キリストによる救いは本当はこれだ、という正当性を守ることに力を注いでいてように見受けられます。とくにパウロの情熱はそこに費やされました。それは自分の得た救いの方法に基づくものでしたが、ついにはその海外宣教の影響が大きすぎたのか、新約聖書の大部分をパウロ神学で埋めることになりました。

 そこでパウロ自身は、福音と名のりながら微妙に、しかしパウロにしてみれば本質的に食い違う相違を一掃することに尽力しました。

 しかし、ユダヤ地方でユダヤ人の中の信徒を保持しなければならなかった、ペトロその他の弟子たちは、必ずしもそうではありません。やはり、変化して現れたとされる教団だけに、さらにそこから変化してゆく傾向をなんとか食い止めなければなりません。

 ペトロ(の名で綴った者)は「偽教師」(ペトロの手紙二2:1)を警戒しています。これははっきり「異端」(同2:1)と呼ばれています。それはどうやら「正しくない者たち」(同2:9)であり、彼らは「正しい道から離れてさまよい歩」(同2:15)く者たちであると見なされています。行為において悪をなす者という観点が中心であるようです。

 ヨハネは(の名で綴った者)は、「反キリスト」(ヨハネの手紙一2:18)が現れたと称し、それは世の終わりの徴表であるとしています。それは「イエスがメシアであることを否定する者」(同2:22)です。彼らは「人を惑わす霊」(同4:6)に支配されているのです。ヨハネにしてみれば、そうした者は、愛に生きることができません。ヨハネはさりげなく、そうした者が知るものは真理でなく「偶像」(同5:21)であると称しています。

 黙示録の時代になってようやく、異端らしい異端に出会った様子が窺えます。「バラムの教え」(黙示録2:14)や「ニコライ派の教え」(黙示録2:15)が偶像に関することをにおわせますし、「イゼベルという女」(同2:20)が自ら預言者と称して惑わしていると記されています。「サタンの集い」(同2:9,3:9)が何を指しているのかは明確でありませんが、これも怪しい。それはユダヤ人でないのに自分はユダヤ人であると偽っている者たちだと説明されています。その後、黙示録は、サタンとの戦いが展開していくことになり、微妙な異端という話は途切れていきます。ローマ皇帝が迫害に迫害を重ねていた時代ですから、もっぱら信徒たちは自分たちの共同体を守るために「敵」と闘っていた様子が想像されます。


パンダ

 この戦いを、地上の目に見える特定の対象におきかえることによって、憎しみ合う歴史が積み重ねられてきました。今なお、アメリカはイラクをそのように見ています。信仰あついと評判のブッシュ大統領だからからなおさらなのかもしれません。しかし、当然のことながら、イラクの側から見れば、アメリカは悪魔と見なされているはず。これでは、正義同士が譲らず、戦いが起こるのは必至です。イラクの側から見ればどうか、とほんの少し想像するだけでも、この争いへのためらいを生みます。だから一神教はだめだとかいう議論は的を射ていないし、ましてや、だからこそ多神教やアニミズムが優れている、と結論づけるのは完全にこじつけにほかなりません。それでは、再び日本は破滅への方向にシフトしてしまうだけです。

 北朝鮮から日本を見たらどうだろうか。その小さな想像力が必要です。残念ながらマスコミは、それとは逆のことを助長する運動ばかりしています。コメンテーターなどの役割を果たす知識人もまた、今北朝鮮の肩をもつと何を言われるか分からないと思っているのか、あるいはほんとうに北朝鮮を悪魔と決めつけているのか、その路線でしか発言しません。

 実質、北朝鮮の弁護をすることは、今の「自由主義」の日本では許されていないのです。

 聖書の「敵」は、見えない敵です。自らのアイデンティティが完成したユダヤ人たちがもはや敵を追い出すことをやめ、民族の自立のためのほかは戦いをしなくなったように、現代人もまた、むやみに見える敵に向けて攻撃をしかけることをとどめる動きにはならないものでしょうか。

 子どもたちもまた、「朝鮮」が悪者であると魂に植え付けられようとしています。教室でその話題に触れると、子どもたちがそういうふうに、報道機関の悪影響をうけていることがはっきりします。

 異質のものがあるのは当然です。異質のものを気味悪がり、無条件に退けるのではない道が、きっとあると信じたい。


パンダ

 わたしもまた、異端思想のキリスト教会の経験があるゆえに、苦しんだけれども、別の見方が存在するという可能性を心得ていることができるように思います。



Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります