羊と山羊(小久保問題より)

2003年11月

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(新約聖書マタイによる福音書25:31-46,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 審きを説く話の一つとして、このたとえもまたいろいろに読むことができるだろうと思います。だから善行を積め、と諭してもよいでしょうし、あるいは靴屋のマルチンのごとく、目の前にいる人が実はキリストなのだという捉え方も、素晴らしい感覚だと思います。

 しかしこの話を読む場合、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあるように、すべての人をきれいに二つに分けるという点を疎かにしてはならないでしょう。

 果たしてこんなにも、見事に人は二つに分けることができるのでしょうか。

パンダ


 2003年11月現在、ずいぶん福岡が荒れています。

 そう、小久保選手の一件です。掲示板によっては、ずいぶん口汚い言葉が続いているところがあります。いや、2ちゃんねるのような掲示板のことではありません。一流新聞社の、ホークス応援の掲示板です。そこには、球団職員に対する誹謗中傷の限りがあり、中には殺すという脅迫も書き込まれています。

 球団責任者の説明不足は否めません。選手やファンが納得する説明は、この時点でなされているとは言えません。でも、このひどい暴言が並ぶ姿は、目を覆いたくなるものがあります。

 立ち並ぶ悪態の中に、私は、一筋の光があれば、と思って投稿をしてみました。


 皆さんの怒りの感情は理解できます。
 でも、今回、当事者の小久保選手と球団とは、何ももめていません。それでも清々しい笑顔の小久保選手が信じられないというなら別ですが……。たしかに、周りは気持ち悪いでしょう。選手にしてみれば、自分もいつか、という思いが現れるかもしれません。でも、小久保選手の意に反したことが起こったわけではないとするなら、その不安も杞憂となるかもしれません。
「今の自分があるのは、過去から現在において出会ったすべての人のおかげだと思います。その中の誰一人がかけても、今のこの幸せな自分は存在しませんでした。だから、すべての人に感謝しています。
 プロ野球選手はまわりの人々に夢と希望を与える職業だという人がいます。でも、ボクは逆です。たくさんの人から夢や希望、エネルギーをもらってきました。そのことがうれしかったんです。」という、藤井将雄くんの最後の日記を、思い出してみませんか。ファンが、選手に夢や希望、そしてエネルギーを送っている、ということを。

 あまり練られた文ではなかったと思います。でも、少しでも誰かが大切なことに気づいてくれたら違うのに、と思いながら慌てて記されたのでしょう。

 それにしても、このホークスの問題はずっとくすぶっていました。優勝旅行の問題も含め、すっきりした説明がないことに一番、誠実さを感じないということのようでした。

パンダ


 金目当ての方法とは言えない面があるようです。でも本当のところがどうなのかは、部外者には分かりません。たしかに、裏がどうとかいう噂は絶えないし、実際、裏があったのかもしれなません。でも、今回の問題では、誰も被害者は、ないように見えるのですが、如何でしょう。少なくとも、当事者においては、トラブルを抱えていながら、被害を訴えることは、ついになかったのです。

 まだ十分説明されたというわけではないのでしょう。あまりにも優等生的に、小久保選手は型どおり挨拶をしていました。小久保もキャンプ地を訪ねて、リーダーらしいけじめをつけたというのです。放送局の取材など様々な応対でも、つねに自分にとってよかったという表情を見せてくれていました。

 私は、彼を信じるほかはないでしょう。

パンダ


 ファンにしてみれば、自分の思うとおりにいかないというもどかしさはあることでしょう。しかし、自分がチームを動かすのではないことは当然です。自分の願い通りにすべてはいくわけではありません。それは、最低限弁えておかなければなりません。

 残された選手たちにしてみれば、裏切られたような気持ちや、将来自分もああなるのかという不安もあるかもしれません。でもその後者については、将来の四番キャプテンを続けてからの不安であっても遅くはありません。毎年、自由契約の危機と背中合わせにやっていることは違いはないでしょうから、このケースは極めて特殊なものだと言わざるをえません。

 やはり、小久保本人が球団ともめているのではない点は忘れてはならないと思います。だから逆に、選手の間からも、小久保というリーダーに対する不信が起こりつつあったのもやむを得ません。いったい誰が困っているのか……それは、理解できない事態に直面して困っている、周囲の者の心理でしかないのです。

 村松や井口など、有力選手が抜けてチームが弱体化するという心配から、嘆き怒るファンもいます。けれども、二人抜けただけでだめになるチームなら、たぶん優勝などするはずがない、という見方もできるでしょう。他のチームでも、当然毎年のように有力選手が抜けていきます。フリーエイジェントを使うこともあるし、契約についての意見の相違からもあります。球団幹部同士の思惑により意に反して動かされる場合もあるでしょう。制度上、それも今は仕方のないこととされています。そのときは、なるほど選手は可哀相ではあります。

 かつてホークスでは、工藤の抜けた後の投手陣の発奮が連覇を果たしました。今年は小久保の欠場を補う働きが若手から生まれました。来年もまた、今計算できないことが起こり、若鷹が羽ばたくと信じることだって、ファンの選択肢の一つなのではないでしょうか。

パンダ


 自分の思い通りにならないというだけの理由で、経営者を愚弄する発言をするのもまた、もう一つの選択肢ではあるのでしょう。こうしたファンが、掲示板では「荒らし」として、実に口汚い言葉を書き連ねています。ただ感情で、自分の中の怒りをぶつけているというのもありますし、幹部への憎しみを新たにしているのもあります。たしかに、球団幹部も、ファンの怒りを軽視して説明をしようといないなど、よくない部分も見られますから、怒りの感情は理解できるのです。

 でも、「荒らし」の誘いに乗ってはいけません。挑発に乗って、そうだ、こんなふうに悪態を吐いてもよいのだ、と思いこみ、誹謗中傷を表にしていくとき、いつしか自分が醜く、だめになっていくことに、気づいていなければなりません。周りがヤジを飛ばしているので、と自分もヤジを飛ばしていたら、周りがフッと静かになって、自分だけがヤジを飛ばして、その責任を負わなければならなくなる、という様子を創造してみてください。

パンダ


 烏合の衆の一部となって、騒ぐことは簡単です。だが、流れに棹ささず、逆らうような輝きを呈することだって、難しいことではないと思うのです。イエスは、信じる者たちのことを「世の光」と呼びました。それは低いところにではなく、高いところに掲げられて光を放つものだと言ったのです。また、光は闇の中にこそ輝くという言葉が聖書にあります。闇は光に勝つことはできない、と。

 しかし、一度怒りに身を任せてしまうと、そして自分の思い通りに行かないことを理由に誰かを敵として定めてしまうと、人間はもう留まることができないようです。掲示板は、相変わらず、口汚い一方的な罵りが消えることがありません。だからまた、聖書の言葉が世の全体に希望を与えることがないという現実も、そのようなものなのだな、と改めて感じます。

 どうすればよいのか、分かりません。でもせめて、気づけばいい。ファンと称する者が希望を与え励ますことをせず、罵りばかりを発するという行為が、果たしてチームにとってプラスなのかどうか、と。

 そして、クリスチャンという言葉が「キリストのファン」のような意味だということを考えるとき、ファンと自称する者がつねにキリストの味方でいるものではない、という厳しい事実も、襟を正されるような思いで味わわなければならないと思うのです。

パンダ


 愛するってどういうことなんだろう――私は、いつもこのことを考えていました。

 自分のことはなかなか見えないから、人のしていることと比べて、自分はどうなんだと見ることはできるかもしれなません。あのホークスの掲示板の一件ですが、どうやらはっきり分かれているなあという気がしてならないのです。

 愛する人がいて、もしその人が何かおかしくなってきたとき――自分の中で悩み、分裂したような心をもっているとき、あるいは何かよからぬ思いを抱いて生活が乱れているとき――、恋人であるあなたはどうしますか。正義の刃で、おまえのここが悪いと力任せに指摘して、悪い性格をその人から追い出そうとするでしょうか。そうする人もいるかもしれません。他方、その悪いところも含めて、その人自身であるがゆえに、まるごとすべてのトラブルを抱えて、その人を包もう、愛し続けようとする人がいるかもしれません。

 相手が何かおかしいことを言うからといって、いえ、自分の思うとおりにならないからといって、罵声を浴びせることが、その相手をよくすることになるのかどうか、考えてみてください。いや、問われているのは、自分のことのほうです。自分がその人を愛しているのかどうか、よく省みなければなりません。

 かつて、私はそういうタイプでした。少なくとも、聖書に出会うまでは、そうでした。だから、そういうタイプでありながら自分は相手を愛しているのだと思い込んでいる人の気持ちも、痛いほど分かります。自分の状態が見えていない、そういう思い違いの人の姿が、かつての自分のように見えて、痛々しいのです。

 ホークスの経営陣を非難するのは簡単なことです。ホークスを守りたいと叫びつつ、経営陣への不満をぶつける気持ちが嘘である筈はありません。でも、罵声を浴びせている人は自身、ホークスを潰す側にまわっていることに気づかなければなりません。もう球場へは行かないとか、ダイエー不買運動をしようとか、有力選手もみんな出て行けばいいとか言って、自分が正義を論じているように思い込んでいる人々。それは、ホークスを愛してというよりもむしろ、ただ自分だけを愛しているのです。そしてこのことには、なかなか気づかないものなのです。

パンダ


 なお、羊と山羊とに分かれるという主旨で考えてきましたが、ダイエー球団を非難している人が山羊であり、私が羊だ、などという分類をしているわけではありません。どうも、ある事柄についての反応からしても、人が二つのタイプにきれいに分かれるということがあるものだ、という意味での比較に留まることを、申し添えておきます。


Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります