敵として相手を見なすことが、不幸の根本であるようなことを、ある本(『人はなぜ「憎む」のか』ドージアJr.河出書房新社2003.7)で読みました。最初から敵である存在なのでなく、敵であると見なしてしまったことが憎しみを生むのだそうです。憎しみは消えることがありません。憎しみが、相手を殺してもよいと自分を正当化する原動力なのです。
なぜ人を殺してはいけないのか。
青年の問いに大人たちが答えられなかったという事態がありました。しかしこの問い自体、どうだったでしょう。哲学的な問い方なのか、宗教的な問い方なのか、科学的な問い方なのか、問うほうは意識しないで言っています。問われたほうが、問い方の不備は考えないで、どきまぎしていました。それは、問い方に問題があったように思えます。
憎む相手、すなわち敵については、人間は、殺してもよい、と結論づける性質をもっているからです。敵を殺すことは、正当なことだと、広く世界で認められている論理です。いえ、論理になる以前から、当然のこととして認められていた真理であるに違いありません。だからこそ、ナイチンゲールやデュナン、マザー・テレサなどが世界に訴える力をもっていたのです。
問うなら、たとえばこうでした。なぜ敵であっても殺してはならないか、と問うなら、それなりの解答ができあがったことでしょう。敵でもない人を殺してはならないのはなぜか、と問われれば、それをなすのは心の病気によるものだと答えることができるかもしれませんでした。
アメリカなどで銃を乱射した青少年たちには、共通点があるといいます。それは、自分が正しいと思っており、つねに何らかの被害者意識の中にあることだそうです。日本ではそうした銃乱射事件は、銃が容易に手に入らないために今のところないと言ってよいのですが、タバコを歩きながら吸う行為は、これに似ています。加害者である自分を被害者のように見立てて、自分は悪くないとしか考えていない点では、精神構造が、乱射少年たちと同じく、きわめて自己中心的なのです。
イエスは、自分が正しいなどとはとても思うことのできない、虐げられた民衆に味方しました。そんなあなたは、神の前に正しいのですよ、と告げました。それが神の赦しという意味の一つです。生きる力が弱っているような人々に対しては、たったその一言だけで、自分は間違ってはいない、として生きる力を与えました。自分が正しい、と信じることなしには、与えられた状況から、一歩も前へ進むことができないのではないでしょうか。イエスは、それを為し得たのでした。
しかし、自分が正しいというこの救いの言葉を、別の気取った意味に理解してしまうと、人間はますますわがままに、自分を正当化することだけに終始して生きていくことになるでしょう。自分は正しいのだ、と。
自分は正しい、と考えることさえできない民衆のために、イエスはユダヤ全体を歩き、声をかけていきました。ときに神の力で奇蹟を起こし、ときにただ言葉を投げかけるだけで、人々の目からウロコのようなものを落としました。
一度弱さを抱え込んだ後にこそ、正しいという宣言は有効なのです。神の義があるからこそ、自分の正しさが受け入れられているのだ、という背景なしには、自分が正しいという命題は、人間をただ慢心させ、誤った方向にずるずると引き込んでいくことでしょう。自由の国アメリカが、その罠に陥ったように。
神の義があるゆえに、罪人である自分もその罪が赦され、神のいのちを受け継ぐ者となりました。私が正しくても、私には栄光はありません。栄光はなくとも、神の義に与って、積極的に、希望をもって生きていく、立ち上がっていくことができるようになりました。これが、神の恵みでなくて、何でしょう。
もしも自分が「敵」と呼んでいる相手の中に、自分と同質のものを見ることがあったら……敵の中に自分自身を見る思いがしらとしたら、ちがった風景が見えてくるかもしれません。
イラクを敵と感じていない者が、反戦運動に参加しました。イラクに憎しみを感じていなかったからです。一部、9・11事件の被害者遺族などの中に反戦者がいたかもしれませんが、それは、イラクへの憎しみを別の感情(あるいは愛)へと転換なさったゆえということなのでしょう。
敵だから憎む。敵だからそれはもはや人間ではない。……だが、もしもその敵の中に自分の姿を見てしまったら、どうだったでしょうか。自分もそのような敵の一員ではないのか、と気づいたら、もう相手を殺すことはできないのではありませんか。それが、内省であり、精一杯の想像力というものです。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と、イエスは言いました。それはできっこない、できそうにないことだ、と人間たちは考えました。私もそうです。いえ、それをなしえた素晴らしい先人たちが幾人もいたことは知っています。イエスの言葉に従った、信じられないようなことのできた人々です。でも、たいていの人には、無理な相談です。
すでに「敵」というレッテルを貼った相手について、愛するというのは困難を極めます。まだ「敵」というレッテルを貼っていない相手については、それができるかもしれません。敵と呼んだがゆえに、憎しみが増大し、そこから引き返せなくなってしまう。まだ敵と呼ばない段階では、なんとか相手を信じ、改善を図ろうとすることができる。こうしたことなら、私たちは、日常的にやっていることです。私たちは、最初からすべての気に入らない相手を「敵」と見なしているわけではないのです。
今、「敵」と呼ぶボーダーのところにいる相手を持っている方、今少しだけ、立ち止まって、その相手を「敵」と呼ばないで済むように思いとどまってみませんか。