キリスト教は二元論ではない、とされます。善と悪の対立を根底に抱えながらも、二者択一の図式で救いを説くのではない、というのです。
たしかに、紛らわしいがゆえに、発生時から二元論的な異端との闘いが続きました。グノーシスという最大の神秘主義思想の払拭は、新約聖書本文にも影響を与えています。教父アウグスティヌスが紛れ込んだマニ教もまた、二元の中で信仰を説明したとされています。
二つのものが対立して、その中でどちらを選択するか、という考え方は、極めて分かりやすいものです。しかし、思い返せば、私たちの生活の中でも、イエス・ノーで割り切れないゾーンは幾らでも残っており、「どちらでもない」が一番無難に見えるのは、たとえば日本人ならよくあることでしょう。日本人の曖昧さと言われるものも、時に健全な「中庸」の判断をなすことがあるというわけです。
自分たちの思想に、人を誘導しようとする人々がいます。たとえば、カルト宗教がそれだとしましょう。彼らは、Bでいいのか、と詰問します。いや、Bはいけない、と相手は答えます。じゃあ、Aしかないではないか、とAが正しいと信じ込ませてゆくのです。
論理的に考えれば、Bでいけないのであっても、必然的にAしか残っていないわけではない場合があるはずです。nonB=A と言えないことがあるはずなのに、彼らの迫り方で、あたかもBの否定が即Aの肯定であるかのように思い込まされていきます。
二元論であれば、この論理は成り立ちます。しかし、もし対立する二つ以外の選択肢や発案があるとすれば、この論理は成り立ちません。
ヘーゲルの弁証法が、第三の「止揚」を重ねて世界精神は発展すると説いたのは有名です。しかし、ともすれば二元論のように見なされる、ヘーゲルより以前のカントもまた、事項を三つのカテゴリーで捉えています。たんなる矛盾を克服する第三の思考法がありうることを、カントは熱く説くのです。それが、科学的であるとは言えないにしても、いわば精神的にはありうるということを。
二元論の元祖であり、近代科学思想の根底を形成した張本人のように言われるデカルトでさえ、精神と物質の橋渡しをする機構を想定しないことには説明できない事態に陥りました。
だのに、今なお、二元論で迫る組織があり、人々がそれに騙されるというのは、人間が如何に二元論の誘惑を受けやすいか、を表しているもと思われます。
常々取り上げる、S新聞のコラムニストは、この二元論による誘導を得意としています。おそらく自分で意識しているではなく、自分もまた、二元論を信じ切っているがために、そうするのだと推測します。
つまり、相手の非を挙げれば、自分が正しいという結論になるという図式を、戦争や政治、イデオロギーを扱うコラムでは、必ずといってよいほど用いるのです。
世の中の扇動的な情報の中には、気をつける表現があります。次のような言い方をする場合は、要注意です。
「だから〜するしかない」
一つの思考法、一つの枠へ追い込むときの、強い言い方です。もちろん、直接そう言わなくても、そう感じさせるような書き方は幾らでもできます。読んでいくうちに、自分が、「なるほど。じゃあ、〜するしかないな」という感想を持ち始めたら、それは、筆者の勝ちです。
この罠に気づけば、読者はまだ助かりますが、気づかずにいれば、操られていくことになります。
聖書は、そうした二元論的な迫り方は、たしかにしていないように思います。それがまた、曖昧さとなって、イスラム教のようなストレートな突き進み方ができず、異端の発生をも招く理由となるのかもしれませんが、私はそのファジーさが自由さとなっていいのではないか、と考えます。
ただし、二元性が全くないわけではありません。神の右に迎えられるか左に追いやられるかは、私にはその構造や基準が判明できるわけではありませんが、審きとしてはっきりしているものと思われます。
だから、確信が必要なのです。