飲酒運転は今日もなくならない

2006年8月

 福岡市の海の中道で、一家5人の乗った車が追突されて海に転落、3人の幼児が水死しました。 言葉で書くとなんと空しいことでしょうか。私自身も走ったことのある道です。

 22歳の福岡市職員は、飲酒運転かつ脇見運転のため、まったく前方の車に気づいていなかったと言っています。80km/h以上は出ていた、と自分で言っているのは、推測だですが、少なめに見積もった数字に違いありません。被害者の車が60km/hしか出していなかったとしても、20km/h程度の差からくる大破のようには考えにくい映像でした。

 飲酒歴2年で、酒の飲み方も分からない若者は、2日前に、別の飲酒運転事件に関する通達をメールで受けていました。警告は完全に無視されたのです。

 夏休みが終わる間際の楽しみの帰りに、理知あるはずの若者が飲酒運転を軽視し、泥酔状態で(どこへ行くという目的もなくぶっ飛ばす)運転をしたために、幼い命が失われ、一家の夢が奪われることとなりました。

 

 憤りは、誰もが覚えます。犯人に対して、怒ります(それでも危険運転の立件から逃れる術があるというから、法律も市民感情からは遠いものなのかもしれません)。

 また、事件を聞いた人は誰もが悲しみ、とくに地元では、記事を読んだだけで涙が絶えなかったという声が多く聞かれました。私も例外ではありません。

 気丈にもテレビ取材にまで応じていたご両親には、自分にはとても真似できないご姿勢だと尊敬の念まで覚えました。

 

 もうこんな事故のないように。

 もうこんな悲しい思いを誰もすることがないように。

 事件を悲しみ、憤る人々もまた、遺族と共に、そのように思います。

 しかし、同じことは、また起こります。必ず、繰り返されるのです。報道されないレベルでは、恐ろしく頻繁に起こっているはずです。

 事は、殺人事件とは異なります。明確な意図を以て殺すという、いわば自由意志については、社会的には止めようがありません。けれども、事故は、直接自由意志によって起こすわけではないから、防ぐ方法がありそうなものに感じます。それでも起こるのは、飲酒運転がいけない、という社会通念が、徹底していないためではないでしょうか。

 

「いやぁ、以前人を殺したんだけどさぁ、捕まらずにすんだよ」

「このあいだあいつの家に火をつけたんだ。見つからずに済んでよかったよ」

 こうした言葉を、私たちが耳にすることは、まずありえないと思います。私たちは、そのような発言を、許さないからです。

 だが、次のような言葉は、いくらでも聞きます。

「酒を飲んで運転して帰ったけど、大丈夫だったよ」

 さらに、今から乗って帰ろうとする者が「すぐそこまでだから、ちょっと酔ったくらいなら、気をつけて運転するから」と言ったとき、「それは絶対にだめだ」と止める者は、普通いないでしょう。「気をつけて帰ってくださいね」と声をかけるくらいです。

 

 私たちは、飲酒運転を、許しているのです。

 

 まぁ、これくらいは何とかなるだろう、という範疇に、飲酒運転を入れている、私たち。

 運転中に携帯電話で話しているのは、日常いくらでも目にします。中にはメールを打っているドライバーもいます。私は、マンガ雑誌をハンドルに置いて見とれて運転している男(轢かれそうになりました)と、文学作品の本を開いている女(前方のふらふらのろのろ走る車でした)とを見たことがあります。

 幼児をエアバッグの代わりにしようと抱えている姿も、少なくありません。

 先日は、公園に来ていた母親どうしの話の中で、「この子が寝ちゃって、左側に傾いたものだから、ハンドルが左にとられて、大変だったわ」という声を聞きました。どのような様子か、想像できると思います。

 これらも、大事故につながるものですが、多くの人が平気でやっています。

 酒に酔って運転することも、平気で行われているわけです。

 

 福岡市の対応も、公務員であまり大したものではありませんでした。が、この事件の場合には、怒りの矛先にはなりにくいでしょう。他の飲酒運転事故を受けて、通達を出しているのですから。

 通達さえ出しておけば責任がなくなる、ということでもありませんし、いかにもお上の対応でしかないことについても、私はさして今回は強く言いますまい。せめて、飲酒運転で懲戒免職にする(逮捕されなければ飲酒運転をしても免職にはならないのはザルであるが)、という、民間ではあたりまえのことを、ようやく始めようという点で、いくらかでも公務員の飲酒運転が減少するかもしれない、とお人好しになってもいいだろうか、とわずかな期待をもつくらいです。たぶんそれでも、飲酒運転はなくなりはしないでしょう。

 公務員は、厳しい試験を通過してきた人間ですし、厳しい倫理を要求されて日々業務にあたっています。地位の保全が保証されている一方、それゆえに求められている倫理というものがあるという世界です。その公務員ですら、この程度の認識しかなかったのです。民間で、飲酒運転が、どれほど蔓延しているか、公認されているか、考えると恐ろしいことです。

 

 JR西日本が、福知山線の尼崎において列車事故を起こしました。

 あのとき、一紳士が、テレビ局のインタビューに対して、吠えていた声が忘れられません。その人は、世の中全体が緩んでいる、これは私たち一人一人が起こした事故なのだ、という意味のことを訴えていました。

 放映はされたものの、その後この発言に注目したレポートは、なかったと思います。テレビ番組は、JR西日本の体質が悪いとか、そのシステムに問題があるとか、そういったことばかりたたみかけるように攻撃していました。

 しかし、あの紳士の言葉が、一番大切だったのです。

 一つの大事故の影に、30のヒヤリとする事故があり、そのそれぞれに30ずつの小さな事故や出来事がある、という法則があるそうですが、まさにそれで、私たちが900の細々としたことを許していた末に、一つの事故が目立ったにすぎないわけです。

 尼崎の事故の場合、私たち全員が、社会において、利益優先、競争原理をはたらかせ、利用者がまた急げ急げと鉄道会社にけしかけていたことを、あの紳士は見落としませんでした。その責任の一端が自分自身にある、という悲痛な自覚を、その人はもっていたわけです。

 

 聖書は、自分の中に「罪」があると知ることから、すべてがスタートすることを教えています。

 自分に罪があるということに気づかない人は、たいへんなことをやってしまった「後」に、罪があったことに気がつきます。

 クリスチャンもまた、たいへんなことをやってしまう可能性は同等にあるはずなのに、自分の中に「罪」があると知っているから、たいへんなことをやってしまわずに済んでいる、というケースが少なからずあるように思います。

 

 キリスト者もまた、まちがいを犯すことはあります。無知や勘違いのゆえに起こしてしまうこともあります。それでも、しばしば、人としての信頼を失うことがないとすれば、ひとつには、自分の中の「罪」という自覚があったということの故ではないでしょうか。


Takapan
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