罪の奴隷

2003年2月

 私たちはしばしば自分を信じることが大切だと口にします。人を励ますときにも、「自分を信じて頑張れ」などと言うことがあります。自分を信じて努力することが大切なことであるかのように語られることは、教育現場に限らず、日常のさまざまな場所で見かけられるように思います。

 キリスト教は、自分でなく、神を信じるように語ります。それは、神頼みとして主体性のないことであり、弱い精神であるように、近代的な人間は見なす歴史を刻んできました。信じるなら自分自身しかない。自分にはこんなに尊厳すべきものがある――ヒューマニズムから、それが正論と考えられるようになってきました。そしてキリスト教は、過去の非科学的な思想のように見なされるようにさえなりました。

 しかしたとえば、イスラム教はさらに徹底した神への依存を説きますが、その勢力は今なお衰えるどころか、ますます発展しつつあり、けっして過去のものでも、非科学的な思想でもないことが認められるはずです。数学や科学で抜群の発展をもたらしたのはイスラムの世界なのですから。

 私たちが「神は死んだ」などと耳にするのは、一部のヨーロッパ思想を基にしているだけであって、自分を信じるなどというスローガンは、ほんの一部の世界の発想に過ぎません。

 いったい、はたして自分を信じることなど、できるのでしょうか。

パンダ

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。(ガラテヤ人への手紙4:3)

 パウロは、イエスの救いに与る以前は、人々は悪魔の奴隷であった、と言っています。

 テレビの子ども向けのヒーローものは、必ず悪役が登場します(最近それが曖昧なものもありますが)。自分たちは悪の組織だ、と告げて、正義の味方に挑戦します。娯楽番組として見る側にしてみれば、分かりやすいこと請け合いです。単純に、正義の味方に感情移入することができます。これは、時代劇がもともと顕著なもので、いわゆる勧善懲悪の立場で描かれることにより、見る者にカタルシスを与える役割を果たしています。

 さて、現実に、自分は悪だと宣言する者がいるのでしょうか。

 ごく一部、そういう組織はあるかもしれませんが、争いというものは、互いに自分こそ正義であると主張して譲らないところに起こるものですから、争いが、諍いが、戦争が起こっているという事実は、正義同士がぶつかっているという証拠になるでしょう。

 そして、その結果、勝てば官軍という結末がもたらされ、後から悪が定められることになります。たいていは、本人もまた自分を悪と認めることなく。

 パウロは、自分が奴隷などではない、という意識しかもっていない面々に向かって、実はそれは奴隷なのだ、という見方をしています。

 知らず識らず奴隷となってしまっていた人々。彼らは、自分を信じていなかったからそうなったのでしょうか。

ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。(ガラテヤ人への手紙4:8)

「もともと神でない神々」とは何でしょうか。神ではないのに神のように見なされているもののことです。神でないことに気づいている状態であれば、このような表現はとらなかったでしょう。

 神のように見なすということは、それを崇拝する、それをすべての原理として立てるということだとも考えられます。

 金に目がくらむというのもそうでしょう。異性に狂うというのもそうかもしれません。

 自分を信じるというのも、これに触れる可能性があります。

 案外、どんな目標も立てずに、すべて流されるままにして生きる、というのが、これとは違う場合に数えられるかもしれません。しかし、それは実際には無理です。できたとしても、それもまた時代の奴隷であることに違いはありません。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ人への手紙5:1)

「私は自分の意志でこうしている」と主張することがあります。

 自分で決めたことだ、自分には自由があるから、これは自分の責任で選んだことだ、と。

 これがそうだとも言えないことを、カルト宗教の「洗脳」という言葉が教えてくれました。洗脳された人間は、自分では選ばされているに過ぎないのに、自分で選んでいると思い、そのように主張するのです。だから、他人もとやかく言えなくなります。そこに目をつけた宗教は、ある意味で利口です。

 いえ、宗教全般が、それと紙一重なのかもしれません。洗脳であるかないか、の判定は微妙です。誰もが、自分の意志だと思ってやっていることが、何かほかの意志に操られているということは、否定できないからです。それどころか、正統的とされるキリスト教でも、神の意志に従って……というとき、この図式の内にあることを認めないわけにはゆきません。

 ただ、パウロは、神の意志に従うことこそ「自由」であると定義しています。ですから、キリスト教は、普遍的な哲学を説いているのではなく、やはり信仰を基にスタートし、展開していくものであることは間違いありません。

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。(ヨハネによる福音書8:34)

 自分で自由に選んだつもりで、その実たんに操られているだけである――よく言われるように、酒に飲まれるというのはそういうことかもしれません。タバコもそうでしょう。タバコを吸う自由があると愛煙家は言いますが、タバコが常習性・中毒性のある薬物である以上、操られていることくらいは自覚したほうが賢明だと思われます。せめて、他人に危害を及ぼしていることにくらいは気づいてほしいのですが、それに気づかないとなると、もはや自由などという論じ方とは別の低い次元の事態にしかならないでしょう。

 罪を犯す者はだれでも罪の奴隷だと言われています。せめて、罪を犯しているということにくらいは気づかなければ、もう悲惨としか言いようがなくなるでしょう。

パンダ

 それにしても、商売の成功者は、たいてい、自分で選んだつもりで実は選ばされている、という状況をつくるのが巧みであるように思えてなりません。その点、バナナのたたき売りやがまの油売りなど大道芸をまじえて売る方法は、選ばされていることを客が承知の上で面白がっていたような部分がありましたから、逆に健全であるのかもしれません。




Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります