ええとこのぼんぼん

2006年10月

 ゴータマ・シッダールタ、後にブッダと呼ばれた人は、大人になり、初めて、生老病死の苦しみを認識したといいます。それまでは、いわば帝王学というのか、無菌室というのか、人生の否定的な側面を、まったく教えられずにいたというのでしょうか。

 出生における伝説として、キリストの生誕とも並べられることがあるものですが、成長環境はずいぶん違うようです。

 フローレンス・ナイチンゲールもまた、よいところのお嬢さんでした。犬の手当てを牧師に実行させるまで満足しなかったという実行力が、後の看護の実現へつながる力となった、ともいわれています。

 えてして、ええとこのぼんぼんとか、箸より重いもんをもたへんお子とかが、弱い人を助ける大きな仕事をしている例は、きっと特例ではないことでしょう。「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原怜子(さとこ)さんもまた、その中に数えられていいと思います。

 多分に、背景に富や権力があったがゆえに、その力が評価された、あるいは実現された、という側面も、しばしばあることかと思います。ナイチンゲールが貧民街の出身であれば、彼女は看護制度を提案することもできなかったし、しても認められなかったことでしょう。

パンダ

 さて、イエス自身は、どうだったでしょうか。

 私たちは、神の子としてイエスを崇めるがゆえに、しばしばイエスを美化します。美しい顔立ちで、白いきれいな衣を着て、光り輝くように上品な言葉を発する……。

 イエスを尊崇するあまりに、そのようなイメージを描くことを、貶めるつもりはありませんが、少なくとも、聖書を読む限りは、そうではないと認めなければならないと考えます。

 食い意地の張った酒飲み、と呼ばれていたイメージ。なんで大工――当時の大工は、日本の職人を思い描くことはできません。石づくりの家である地方では、アスベストを吸いまくり早死にが運命づけられていた職業だと理解したほうが自然です――の息子が、学校にも行かないで、偉そうなことを言っているのか、と村人たちが囁き合います。生意気だ、とエリートたちが顔をしかめます。可能性としては、薄汚い恰好をして定住の家をもたない人物が、気の利いたことを喋っているという見方が、聖書から自然にうかがえるイエス像ではないでしょうか。

 

 つまり、イエスは、最初から貧しかったし、最後まで貧しかったのでしょう。ええとこのぼんぼんが、困った人のために働くことに生き甲斐を見出した、というのとは違うのです。

 もちろん、神の子であるのに、という説明はできますでしょうが、それは信仰の中での理解です。イエスが今目の前にナマで立っているとしたら、そこからそれを感じ取ることは、不可能なはずです。

 それくらい、イエスは徹底しています。実の姿を隠している、ウルトラマンではないのです。とことん、弱かった。とことん、貧しかった。最後も、不条理ではあるにせよ、民衆の感情としては当然のこととして――今でもあくどい事件が発覚すると、マスコミも国民も一斉に攻撃する――、十字架でぼろぼろにされた。

 クリスチャンは、そんなイエスを信じています。このことを忘れてしまうと、ちょっとしたことで、イエスを棄ててしまうか、または別の何かを信仰するようにすり替わっていってしまうことになりかねません。

 私は、そしてあなたは、人に顧みられない、そのぼろきれのようなイエスを、ほんとうに愛していますか。


Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります