ブラックジャックと助からない命

2005年5月

 テレビアニメとして初めて連続して放映されている「ブラックジャック」が好評です。

 私も楽しみにしていた。「火の鳥」に次いで私にとり思い入れの深い手塚作品だったのです。

 当初の印象は、ちょっと格好良すぎるかな、というものでした。ブラックジャックが、まるで変身ヒーローのようにオペの準備に入るというのも、演出とはいえ、そこまでするかなあ、という感じでした。

 でも、それはそれで見慣れてきました。

 息子である手塚眞氏が指揮を執るとあって、原作の持ち味をよく活かしてあります。必ず原作の題名も紹介するところにも、原作の尊重がよく現れていると思います。

 ただし、テレビ放映となると、誌面にはない制限が伴います。手術シーンを、食事時にあまりにリアルに流してしまうことはできないでしょうし、特定の職業に対して偏見を与えかねないような設定・表現は避けなければならないでしょう。

 かつての状況が現代にそぐわない場面は、もちろん変更するでしょう。そのチェックだけでも大変な作業だろうと思います。本当に、よく作ってあるものです。

 手塚作品に独特の、キャラクターを俳優のように各話で自由に用いるのも、連続放映の中では、うまく使えません。「山手線の哲」の話では、すでにマスターとして働いているヒゲオヤジがかつてスリであった、というふうに上手に設定することによって、人物を二重に使う工夫がしてありました。

パンダ

 こうした変更の努力を、ファンとしてありがたく受け止めます。

 と同時に、事情を十分察知しながらも、これでいいのか、と感じる変更点が気になるのです。

 それは、誰でも助かってしまう点です。

 がけ崩れに遭う清水先生も、ナダレに襲われた婚約者も、原作では亡くなっていたのに、テレビでは命が助かることになりました。

 そう、テレビ放映という公共性の高いアニメの中では、むやみに死者を示すのには、問題があるのでしょう。

 ブラックジャックは、連載当初は「恐怖コミックス」でした。それがいつからか、「ヒューマンコミックス」と称されるようになりました。金をがめつく奪う悪徳医師が、命の大切さを訴える者として活躍するのです。

 テレビ放映でも、その「命」をメインに据えているのでしょう。「命」が助かる話にしなければ……。

 しかし、ブラックジャックは、原作でも一割ほど、オペに失敗しています。少なくとも、成功したとは言えない状況にあります。もしそれがなく、すべての手術を「神」として成功させていたら、これほどの魅力もなかったでしょうし、たぶん「命」のメッセージが伝わることもなかったのではないでしょうか。

 ブラックジャック自身、失敗の中で苦悩し、迷い、考えていきます。彼は「神」ではありません。その意味では、間違いなく「ヒューマン」コミックスです。

 と同時に、限りあるものとしての「命」を描くことで、逆に、その大切さが訴えられていく、という効果も、あったように感じるのです。

 こんなふうに書くと、国粋主義者を喜ばせることになるかもしれませんが、何かの犠牲になった命があるからこそ、他の多くの命が救われているということがあるものです。

 生き物のレベルで考えると、殺生ということで、仏教にもそういう考えが通じるでしょう。

 そしてキリスト教では、まさにその犠牲が、すべての人に命をもたらすものとなりました。血生臭い犠牲の姿は、中東近辺での風土的な特徴であるかもしれませんが、とにかく命を捨てるということで、逆に命を得る視点が与えられるわけです。

パンダ

 アニメはアニメ。それをどうというのも変なのですが、原作で助からなかった人を安易に助けてしまうというのは、かなり大きな変更点となります。切ない読後感が、よけいに命の尊さを心に貫かせていたように、テレビ放映でも、消える命を描くことはできないものだろうか、と望みます。

 現実の事件や事故で人が死ぬのではなく、あくまでもフィクションなのですから……。



Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります