新約聖書の福音書には、イエスのまわりに、「悪霊に取りつかれた」人が連れられてくるさまが描いてあります。
夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れてきた。
(マルコによる福音書1:32,新共同訳)
……悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し……
(マタイによる福音書9:32-33)
イエスの評判を聞いて、外国人の女性までが、必死の思いでやって来ます。
汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
(マルコによる福音書7:25)
中には、荒っぽい仕方で悪霊を追い出すこともあります。
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
(ルカによる福音書4:35)
悪霊退散とか、霊媒師とかなると、西洋式の「エクソシスト」だの、最近の「犬夜叉」(そもそもこの作者、高橋留美子さんは、デビュー当初からこの手の趣味が濃かったですね)だのが浮かんでくるかもしれません。
どうなのでしょう。この悪霊というのは、今でいうある種の病気なのでしょうか。
原因不明の病、あるいは精神的な病気だという人もいます。
不思議なことに、あれほど生活の中に細々とした規定を盛り込んだ、いわゆる「律法」(モーセ五書)の中に、この悪霊、あるいは汚れた霊に関する規定というものが、見当たらないのです。まるで、律法というものが、精神的な障害をもつ者に対しては働かないような印象さえ与えます。自己責任能力が問われないのは、なるほど今もそうです。心が病に冒されてしまったら、処罰の対象外に置かれてしまうというのでしょうか。
次のような例になると、実に悲壮な情景が思い浮かんでしまいます。
イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
(マルコによる福音書5:2-5)
そもそも、病が悪霊のせいだとするのは、きわめて前近代的なもののように見えますか?
今なら、ウィルスが原因であるとか、化学的反応、物理的な作用により、障害が発生した、とか説明づけられることがあります。たしかに、そうした説明は、文明の進歩の賜物でしょう。
しかし、その当人の責任ではない、という結論においては、悪霊という説明をした二千年、三千年昔と、何ら変わっていない点は注目すべきです。いえ、心の病、心の弱さについては、現代のほうが、本人や親のせいであるとされることがあるかもしれません。昔のほうが、明らかに、人間の外に責任を置くことに徹していたのではないでしょうか。
「俺が税金を集めているんだ」と威張った政治家がいました。自分は正常だ、と胸を張っている人間が、人を虐げている様は、今も昔も変わりません。
こうした、勘違いしたエリートたちに対して、イエスは、牙をむきました。正確に言うと、彼らの圧力に屈することなく、立ち向かったのです。
生まれつきの盲人の目をイエスが開いたとき、その様子を見たエリートたちは、イエスの言葉「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネによる福音書9:39)に対して、自分たちは見えないとでも言いたいのか、と迫りました。
イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
(ヨハネによる福音書9:41)
それとは逆に、自分の弱さを痛感する人に対しては、イエスは限りないいつくしみの眼差しを送り、癒しの手を伸ばします。そうして、赦し、救いを与えていくのです。