「愛し合いなさい」 その残酷な状況

2002年7月

 人々には理解されなかった。
 権力者は自分を敵視する。喜んでいた大衆も、今にそちらの側につくことは容易に想像される。いろいろ見える形で、真実を尽くしてみたのだが、それも一時的な熱狂にすぎず、喉元を過ぎれば、庶民はしょせん自分の利益になることしか賛同しない。

 残された時間はわずかだ。今のうちに、できることはしておかなければならない。
 これが最後の食事だ。その席で、わたしはホストとして、また仕えるしもべとしての役割を精一杯果たそう。まずは、仲間たちの足を洗った。上着を脱いだ。もうこれでわたしはこの世の姿を脱いでいくのだと伝えたい気持ちだった。手ぬぐいを腰に巻き、たらいに水を汲んだ。すべて、仕えるしもべ、あるいは奴隷の仕事である。仲間たちの足を、ひとりひとり洗ってもてなした。
 それから、食事をもてなした。この最後のひとときのことが、きっと永遠に記憶されることになるだろうことを思い、わたしにできることを尽くそうとした。

 長く付き合ってきた仲間の中にも、不穏な空気が流れている。
 わたしから離れる者がある。側近として、金の世話をしてきただけに、利害には計算高いのか。今こそ、わたしを売るときだと読んだようだ。おそらく権力者に通じている。そこでいくばくかの金を手にし、それと引き換えに、わたしを渡すつもりだ。

 純朴なリーダーも、感情だけで動いている。
 敵のいる中に敢然と立ち向かうのだと説明すると、「自分は命も捨てる覚悟でおります」などと叫ぶ。口先だけだということに、自分でも気がついていない。たしかにこの男、湖に飛び込んでみたりもしたし、わたしは殺された後復活すると口にしたとき、後半の部分を聞きもしないで「そんなことはあってはなりません」と興奮して言ったことがある。その勢いのよさは、将来のリーダーとなるに頼もしい面があることをわたしは知っている。だが、とにかく今、この時点で彼はわたしの立場も自分の言葉のいいかげんさも、何も理解していない。足を洗ってやったときも、ずいぶん興奮していたっけ……。
パンダ
 孤独。
 ひとり、ただひとりであること。
 これほどの孤独の心が、あったでしょうか。

 この状況で、イエスは弟子たちに語ります。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

(ヨハネによる福音書13:34,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 いかにも心に美しく響く、「愛し合いなさい」の言葉。受け止め間違っていませんか。イエスのこの言葉は、孤独極まりない状況で、死に赴く十字路を選択したときに発された言葉です。まったく誰にも愛されない中、うわべだけの言葉と疑いの言葉を浴びている中で、語ったのです。

「こんなひどい目に遭っているのは自分だけだ。こんなときに、どうして人を愛せようか。自分のことしか考えることができないじゃないか」
 私たちは、そう呟きます。そんな私たちに、世界を変える言葉をイエスは与えました。

「愛し合いなさい」

パンダ
 続いてイエスは言いました。

「心を騒がせるな」

(ヨハネによる福音書14:1,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 まるで、自分自身に言い聞かせるかのように語り始め、自分がこれから行くところ、それから果たす約束を告げるのです……。


Takapan
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