悪魔と依怙贔屓

2005年6月


 悪魔というと、マンガや映画のイメージもあり、もちろん聖書にもふんだんにありますが、ユダヤあるいは他のオリエント地方における伝統的な悪魔概念なども知られるようになり、はたまたゲームのキャラクターとしての様々な種類の悪魔も登場したとあっては、どれが何だか分からなくなりそうです。
 サタンはもとより、ルシファー・ベルゼブル・ベリアル・メフィストフェレス・デーモンやらマモン――このように様々な名、様々な階級や総称があると想像されています。
 悪魔について考えてきた人間の歴史を繙くならば、偉大な文化の一面が現れてくることでしょう。
 と同時にそれは、恐れられる存在ではなくなりつつあるような気がしてなりません。もはや、コンピュータゲームの中のキャラクターの一人に過ぎないような扱いしかなされていないようにも見えてきてしまいます。
 
 でも、悪魔の恐ろしさは、そんなもので終わるはずがありません。
  
 十字架にかかることになる、とイエスが口にしたとき、弟子のペトロは、そんなことがあってはなりません、と叫びました。人間的には、ごく普通の反応です。しかし、そんなペトロに向かって、イエスは、悪魔がそれを語らせている、と指摘しました。
 
 サタンは、「告発する者」と見なされることがあります。
 人の悪を訴えるのです。そのため、時に人を唆して悪事をなさせるということもあるのですが、それは元来人の中に悪への傾向性があるゆえに、でなければなりません。でないと、悪はすべてが悪魔のせいであることになり、人の責任というものがなくなってしまうかもしれないからです。
 
 告発する――いったい、誰に?
 それは、神に、でしかないでしょう。
 ヨブ記には、そのあたりの事情がうまく描かれています。神に仕えるヨブが、神に嘉され幸せに暮らしているがためだ、と表するサタンに、神はヨブを痛めつけることを許可します。告発できるものなら、してみい、という具合に。神は、ヨブが結局告発されないであろうことを、ご存知だったのでしょう。
 
 悪魔というと、しばしば、神と悪魔との戦い、という構図が思い描かれます。この世には二つの原理がある、善と悪とである。神が善であり、悪魔が悪である。この二つのどちらにおまえはつくのか。悪魔を遠ざけよ、そのためには……。そんな説明は、きわめて分かりやすいものです。
 しかし、そうなのでしょうか。
 
 少なくとも、ヨブ記の神とサタンとの関係は、そのようなものではありません。サタンも完全に神に従っています。
 すべて裁く立場にあるのが神であるとすると、その神の前で、人間の罪を告発するサタンは、さながら検事のようです。それも、凡ゆる手を使って人に罪状を認めさせ有罪を確定させようとする、有能だが悪徳な検事のように。
 この検事に睨まれたら、人間に勝てっこはありません。なにせ、人は誰も皆、罪人に過ぎないからです。告発されないでいられるような人間は、誰一人いないので、この検事にかかったら、すべての人が有罪宣告されることは、間違いありません。
 
 ここに、弁護者が求められます。検事の追及に堪え、それを反駁し、被告人に無罪をもたらすことができるような、弁護者が。
 しかし、罪そのものにおいては、もはや何の言い逃れもできないこの哀れな被告人のために、弁護者はこんなことを考えました。その罪はすでにこのように罰されており、償いが終わっているのです、と裁判において、自分の身を示すのです。この被告人は、すでに魂をこの弁護者に預けましたので、この弁護者自身の傷は、被告人のものでもあるのです。そう言って、弁護者は、鞭打たれ割かれた肉と、手足の釘の痕、脇腹の槍の痕を、裁判の席で見せます。この、ボロ雑巾のように捨てられた私のからだが、被告人の罪を贖ったのです、と。
 
 この弁護者は、実は、裁判官である神が自ら姿を変えて送り込んだ、御子キリストでありました。裁判官自身が、人間を助けようと思って、最大限のことをしてくれたのです。
 なんという、依怙贔屓(えこひいき)でありましょうか。



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