私は正しい

2003年12月

「え、日本とアメリカが戦争したことがあったの? それでどっちが勝ったの?」と聞く子がいるといわれたことがある。とんでもない話、困った話の例として挙げられたが、十二月八日はその日米開戦の日。その日から六十二年がたった。

▼日本が大東亜戦争に駆り立てられた動機ははたして「侵略」にあったのか。明治維新によって近代国家になった日本にとって、ロシアの南下政策は大きな脅威であり、アジアへ進出した西欧列強も日本をおびやかした。しかし「列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は東京裁判で封じられた。

▼ところが日本占領の元帥マッカーサーは一九五〇(昭和二十五)年十月、大統領トルーマンとのウェーク島会談で「東京裁判は誤りだ」と告白したという。翌五一年五月の米議会聴聞会で次の証言も、近年注目されている。

▼「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」

▼マッカーサーは日本は自衛戦争をしたと述べたのだが、そういう日本の「戦争責任」がいまもしばしば論じられている。執拗(しつよう)に責任を追及するものがいる。しかしもし戦争を起こした側に責任があるとすれば、戦争を起こさせた側にもそれがあるはずである。

▼イラク戦争を見ればはっきりするだろう。先制攻撃をしたのはアメリカだが、ではその単独行動主義の戦争責任だけが責められるのか。サダム・フセイン政権のクルド人虐殺やテロ支援や独裁や専制に問題はないのか。戦争責任をいうなら戦争を起こさせた側にもあるというべきだろう。(産経抄2003年12月8日)

 おなじみの「産経抄」。如何に論理的でないか、扇動的であるかは、いまさら説明する必要もないでしょう。この文章を読んで、言いたいことが論理的に伝わりますか?

●東京裁判には問題があり、日本には戦争をする理由があった。

●今なお、日本の戦争責任を執拗に追及する者がいる。

●だから戦争を起こした側にも責任がある。

●イラク戦争はイラクに責任がある。

 直接記してはいませんが、この次に、「だからアメリカの攻撃に文句を唱える者(たとえば民主党)は間違っている」と言いたいことは、2日前の産経抄の最後のほうを読めば分かります。

……だがこうしたイラクでのテロ行為を、「レジスタンス」などと表現する識者がいた。知る限りでは大学教授や民主党議員である。

▼レジスタンスとは、第二次大戦でナチスに対するフランスなどの抵抗運動を指す。ならば日本の外交官もイラク民衆の果敢な抵抗や蜂起によって殺されたとでもいうのか。一体どんな情報や分析に基づいてイラクのテロをそのように評価するのか、違和感というより強い憤りを感じる。(産経抄2003年12月6日)

 この筆者が言いたいことは、「太平洋戦争を起こした日本には理由があり、日本は悪くない」「イラクは悪いので日本は叩くべきである」さらにもちろん「北朝鮮は悪いので日本は叩くべきである」という方向です。

 いずれにしても、日本は正しいのであり、自分は正しいのであるから、悪いものを攻撃することは善だというのです。

 どうして、このような主張が一部の人に受け入れられるのか、私には理解できません。わがままな感情としてそういうものがあるというのは、理解不可能ではないのですが、新聞が、こうした全く論理の通らないことを主張して、扇動することがあってよいのかどうか、分からないのです。尤も、この新聞社そのものが、そうした感情の人間が集まって作ったというわけでしかなければ、こういうことになってしまうのでしょうが。たとえば、統一協会が発行している『世界日報』のように。

パンダ

 ▼しかしイラクで死んだ二人の外交官の日常は決してそうではなかった。水も電気もない生活を続け、砂嵐の下、最前線の底辺で日本の名誉を支えていた。不幸な悲劇によって初めてそうした苦闘が世に知らされることになったとすれば、これも不幸というほかない。

 ▼奥参事官の言葉が残されている。国連事務所のテロ現場では「これを見て(日本が)引くことができますか」と語り、支援の妨害には「常に犠牲はつきものだ。断固としてテロとたたかう」と語っていたそうだ。この遺志を受け継がなくて何とする。それ以外に道はないはずである。(産経抄2003年12月2日)

 もちろん私も悲しいと思います。だからといって、大衆ウケを狙うテレビ報道もまた、二人の死を美談にまとめあげていることは、警戒しなければなりません。私たちも、報道されないところでの苦労や犠牲がさらにあることを想像する能力があるならば、外交官の死をことさらに大きく掲げて、感傷的にある方向へ導こうとする政治的な意図を見破る能力もあるはずでしょう。

 そうでないと、産経抄の筆者の思うがままとなります。上のように、このたびの外交官の死については最大の賛辞を贈るとともに、その死を「遺志」として攻撃的なものに扇動しようとしている同じ筆者が、イラクに命を張って乗り込み、人間の盾として戦争を抑止しようとした木村牧師(だけではもちろん、ない)などのことを、そのコラムではかつて次のように酷評していました。

 ▼日本でも「反戦平和」「戦争反対」のデモがあったばかりである。お寺の境内で反戦ハンストというのもあった。「人間の盾」でイラクへ出かけた連中もいた。ところがこれがタテにもヨコにもならず、ほうほうの体で逃げ帰ってきた。(産経抄2003年7月3日)

 二人の日本人外交官の死の背後で、イラクで送電塔建設などの作業を行うため、イラクの首都バグダッドのホテルに滞在していたオム電気の社員が銃撃され、二人が死に至っています。韓国の『朝鮮日報』では、これによりイラクへの派兵がなくなるのはテロに屈することであると言いつつも、北朝鮮を睨む場合にアメリカの協力を仰ぐために派兵しようとする盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の姿勢は批判しています。その打算の下に派兵することについては反対だ、と言っているのです。イラクの平和と再建のためである限りにおいて、派兵するしかない、と。

 これなら、筋が通っています。産経抄とは如何に質が違うかが分かります。

パンダ

 とにかく私は正しい、ということからすべてを始めるのは、決して論理ではありません。聖書は、自分が神になることは、最大の罪であるという思想の下に書かれています。イエスが殺されたのは、自分を神としようとしている、と見なされたからにほかなりません。

 人間が、自分を神だと思うことほど、怖いことはありません。なにしろ、自分には非がないのです。日本人がよく口にする、「自分にも間違いはあるかもしれないけれども……」という口調は、結局、自分に間違いはないと言っているに過ぎません。一応の外交辞令でしかないのです。

 もちろん、権力者がそう思うのは怖いことです。でももっと怖いのは、その権力者に踊らされて、一人一人の民衆が、自分が神だと思い始めることです。多数決の原則の下、世間を動かすためには、多くの頭数を、「自分は正しい」の渦の中に巻き込むことが有効でしょう。産経抄の筆者も、そのことが分かっているはずです。

 聖書を知る者は、時代を見張る役目も負っているのです。


Takapan
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