たかぱんワイド・幸せのバイブル
聖書が伝える幸せのメッセージをともに

■ 信じる幸せ


信仰などと聞くと、外から見る人は宗教くさいと敬遠し、内から見る人はそんなに自分は信仰が強くないと悩む、そのあたりがありがちなのかもしれません。
 
どうも「仰」の字がそうさせる一因のようで、ギリシア語にしろ西欧語にしろ、これは「信頼」を表す語であって、ほかには「真実」「信実」などとも訳されます。私たちの感覚からすると、「誠意」「忠実」のように感じるときもあろうかと思います。
 
どうして今日もその会社に勤めるのですか。ほんとうに月末に給料をくれるという保証がありますか。それは、給料をくれると信頼しているからではないでしょうか。
 
そのドアを開けたら向こうは壁になっていてぶつかることはない、あるいは落とし穴がそこにあるわけではない、とどうして思えるのでしょう。信頼あればこそです。
 
そんなことを気にするのは精神的にどうかしている、と言われそうですが、考えてみればこの世界、信頼の連続で私たちは行動していることに気がつく体験ができそうです。このような意味で「信じる」ということは、きっと幸せの要素であるだろうと感じます。
 
結婚相手を信頼していますか。自分のいないところで何しているか分からないぞ、などとは普通は考えないでしょう。時折相手のスマホを調べる輩がいるらしいのですが、どこか気弱なのか、自分に自信がないのか、そういうのを「不信」と呼ぶのも仕方がないでしょうか。
 
相手を信頼することと、自分が信頼されていることとは同時的に成り立っている関係でしょう。互いに信頼し合うところに、強い確かな関係が成立するわけです。そこに幸せがあると思いませんか。
 
どちらが先か、ということを決める必要はないのかもしれませんが、たとえば相手から強く信頼されていると分かると、こちらも相手を信頼して然るべきだと思います。その信頼に応えて、自分も頑張ろうという気持ちも起こってきます。家弟や環境に様々ありますから一概には言えませんが、恵まれた親子関係にもそういうものはあるでしょう。
 
聖書を見ると随所で、神がまず私たちを愛したのだ、ということがひしひしと伝わってきます。
 
「神を信じる」というのは、実は「神が存在すると思う」という意味ではなくて、「神を信頼する」という意味にほかなりません。そしてそれは、「神がまず私を信頼している」ということを知ったとき、「神を信頼する」ことに意味を見出すこととなり、それは神との間の強い関係の成立であることを体験することになるのです。
 
そうなると、不安や失望に陥りそうになっても、それがすべてとはなりません。友や恋人などとの間でも、もちろん信頼関係はできるでしょう。しかし神との信頼関係は絶大です。なにせ相手は神ですから。

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