たかぱんワイド・幸せのバイブル
聖書が伝える幸せのメッセージをともに

■ 板挟みから逃れる道


地動説が正しくて、天動説は間違っている。教会は人間中心で、天動説に執着していた。
 
こんなふうに、よく言われます。キリスト者でもしばしばそのように言います。自分たちが間違っていたという告白そのものは、悪いことではありません。しかし、さて、これでよいのでしょうか。
 
太陽もまた、宇宙の中で固定したとは言えないのではないでしょうか。地球が動いていることは否めませんが、それは太陽が動かないということを意味せず、その他の天体もまた同様です。ある意味で天動説は適切なのです。これは間違っている云々の話ではなく、地動説をとると、それまで複雑な説明を要した天体の動きが、もっと簡潔に説明できるという、手法の問題だったと考えたほうがよいのです。そもそも、絶対的に固定するのでなければ、あらゆるものが相対的に関係づけられているとなると、便宜上、地球を固定して説明することが「間違っている」とは言えなくなります。現代物理学は、もはやこうした次元では話をしないと思われますが。
 
ミクロなレベルと考えてみましょう。現に私たちは、自分という視点からのみ、世界を見ているわけです。主観と客観という位置づけをもつようになった近代以降、私たちは、自分という立場から物事を考えることにすっかり慣れてしまいました。中には、ひとの立場というものを全く解さないような人もいます。
 
天道説は間違っているよ、と主張する人自身が、すっかり自分中心の世界観しかもっていないとすると、滑稽なのですが、ご本人は全くそのことに気づかない場合がしばしばです。
 
正しいか間違いか、2つにひとつしかない、とする考え方だと、1つの考えの矛盾により、容易に反対の考えに導かれてしまいます。人心を操るのがうまい者たち、あるいは権力者や詐欺師、洗脳を目的とする者たちもしばしばそうですが、このようなテクニックで、人間を支配することを企みます。こうして戦争が正義となり、破壊と死が仕方のないものになってきた歴史を振り返るだけでも、その危険性が分かるように思われます。
 
幸せは、聖書では「呪い」と対比されます。恰も2つに1つしかないかのように聞こえるかもしれません。けれども、イエス・キリストは、しばしばそのような2つの対立の隙間から、新たな道を見せてくれています。2つのものの板挟みになって辛い選択を強いられることがあったら、聖書の中から、逃れ道を、ぜひ探してみてください。

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